新田伝説(新田郡、現太田市・みどり市・伊勢崎市)
○笠懸桜塚・園田屋敷の地蔵様は、賭事の地蔵様だった。 そのため賭博人が「かけら」を求めたため、頭・手が無くなってしまった。 その後、復元されたらしい。
○岩宿の天王様は、疫病が流行った時に担ぎ出されて、疫病を追い払った。(1962年)
○平安時代、新田荘では鹿に田畑を荒らされたので、領主園田太郎家茂が「鹿専用畑」を作らせ・通常の畑と分離したので、この地を「鹿田」とよんだ。
※山田郡小倉村の鹿田との説もある。
○葬式が家から出る時坊さんが鐘を「ジャラン・ボーン」と鳴らしたので、葬式を「ジャンポン」とよぶようになった。 三途の川を渡ると六道の分かれ道に出るので、良い道を選べるようにと手を合わせるので「手乞坂(てぐい坂)」。
○宝永年間、田中左兵衛が潅漑用水池を作り四体の弁天様を祭った。(田中堤の弁天様)。 その後弁天様が行方不明になったが、1964年池底から見つかった。
○1877年、笠縣吹上の庚申塔を移動させたところ災難が続いたので、元の場所に戻したところ収まった。
○徳本行者が念仏講を広め、1819年笠縣阿左美・長寿院に石碑(名号石)が建てられた。
○藪塚本町にはオトウカが出た、キツネの嫁入りも多数目撃された。 キツネ除けには、小泉神社から白狐(オビャッコ)を借りてきて祭るのが有効。
○藪塚大原に大きなバラの木があり、その実は六千石あった。 この木が倒れて枝が分かれ、上江田・中江田・下江田・大根・六千石なる地名が生まれた。
○源義経が松の木に笠をかけて休んだので、「笠掛けの松」、休んだ地を「笠縣野(後に百石)」。
○源義経が平泉へ逃げる途中休んだのが藪塚村山之神の松林、腰を下ろしたのが「義経腰掛けの松」。 出発の際、杖を地面に刺していったのが根付き松の大木となった。
※出発したのが十月十日、村人達が精一杯ご馳走したので十日夜の準備ができなかった。 「来年からは十日夜は九日にしよう」
○市野井の一の字池には大蛇が住み、金山まで行き来していた。
○木崎の大通寺の欅の根元に、新田義貞が埋蔵金を埋めたらしい。
○義重の娘妙満尼が、夫義平の首を奪い弔ったのが蓮華院妙満山大慶寺。 首塚では不思議なことが度々起こったので、雷電神社を祀り鎮めた。
※妙満尼が父義重像を彫り供養したところ一夜にして不動明王によみがえったとされる。
※同行した側室の一人が妙真尼で、境町上淵に妙真寺を開いたともされる。
○江田行義が鎌倉征伐の新田義貞勢に加わり出陣したが故郷へ帰ることはなかった。 一人残された奥方は、毎日京の方向を眺めて暮らした。 その姿をみたものはみな同情し、池のヨシは京都側だけに葉をつけ・小魚は片目になった。
※ヨシについては、新田義重にあきれてそっぽを向いたので片葉になった、説もある。
○新田義貞が鎌倉攻めの旗揚げをしたのが「守護不動」・援軍を集めたのが「安養寺・触れ不動」・軍勢が少ないので悲しんで泣いたのが「泣き地蔵」、あわせて新田の三地蔵。
○豊城入彦命が大国主命を祀ったのが生品神社、天喜年間には源義家が奥州征伐祈願をした。
○鎌倉時代、新田勢に斬られた北条勢の一人が中江田赤仏・観音堂に逃げ込み息絶えた。 敵方とはいえ哀れんだ村人が地蔵仏を建てて供った。 この時から化粧仏として彩色されたらしい。
○新田町大根大慶応寺の不動様と尾島町安養寺の不動様は兄弟。 新田義貞が戦死したさい悲しんだので「泣き不動様」とよばれる。 また、寺が大火で焼けたさい不動様自ら逃げ延びたので「火伏せ不動様」ともよばれる。
○新田義貞が鎌倉進軍の途中休んで冠を掛けたのが「大通寺・冠掛けの松」。
○子供に姿を変えて鼻取りをしたのが「鼻取り地蔵」。 ※「鼻取り地蔵」はグンマ各地にある。
○大転縛権現(石祠)は風邪の神様。
○市野井・福蔵院の地蔵様は「夜泣き地蔵」、子供の夜泣き願掛けは団子の事。
○1333年新田義貞勢は、生品神社において鎌倉幕府打倒の旗揚げで一斉に鏑矢を放った。 この矢が雨のように落ちてきたので「振矢」部落、義貞の放った矢は300m先の矢の目諏訪神社の松の木に刺さったので「矢止めの松」。
※「松の木」・「矢の目」という地名もあった。
○大水の石田川を渡るさい、ヨシの間の浅瀬を泳ぐ鯉や鯰の後をついて渡ったので、「鯉鯰橋(りねん橋)」。
○栄朝禅師が牛に乗って全国行脚の途中、世良田で牛が倒れて石になったのが「牛石」。
○三代将軍徳川家光が寄進したのが、世良田・普門寺宮殿。
○赤城の埋蔵金
赤城村深山芳ヶ沢には軍用金三百五十万両他が四箇所に分けて埋まっているといわれ、1968年には小判五十七枚が見つかったらしい。
※赤城山で軍用金埋蔵中に人夫に逃げ羅れたのので発覚を恐れ、一部を赤城に埋め・ほとんどを西上州と甲州に分けて秘匿したという伝説もある。
※生品神社(いくしな)・市野井
古くは生階神社。 元弘三年新田義貞が旗を挙げたともいわれるが、どこの生品神社かは定かではない。 新田義貞の話も定かではない。
☆雷と臍
館林町六郷村蓮華院の雷神石像、「雷が鳴る(来る)から臍をおさえろ」
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