北橘伝説(勢多郡北橘:きたたちばな、現渋川市北橘町:ほっきまち)
○親鸞一行が「波阿弥陀物」と唱えながら布教の途中、上箱田の硯石で利根川の白波を見て、「この自然の激しい地の人々はその気質も激しく、私の教えも容易には理解されないであろう」。 布教をあきらめ常陸国へ向かった。 このとき、硯石で墨をすり和歌を詠んだ。
○火事の時に助けられたお坊さんに、お茶がなかったので甘酒を出したら喜んで飲んだ。 翌朝、石井・珊瑚寺のお地蔵さんの手が焼けていた。 それ以来、甘酒を供えるようになり「甘酒地蔵」とよばれる。 萩原右近・左近兄弟が祭った地蔵ともいわれる。
(上野国群馬郡白井之古城・長尾景春入道伊玄再築図)
○どうこんが入定(入滅)したのが「どうこん塚」、兄の道光も入定している。 ※グンマには、数多く入定の話がある。
○年寄りを生きながら埋めたのが「カンカン山」。 生きている間は竹をカンカンと叩き、食料を得た。
○小室・子安観音は、十字架をかけたマリア像に似ているといわれた。 隠れキリシタンがいたともいわれる。
○日本武尊が弟橘姫を想い「橘姫恋し」と言ったのが「橘山」。
○木曽義仲死後、残された家臣が首を七重の箱に入れ逃れてきたが、突然箱が重くなり動けなくなったので、木曽三社神社を祭った。 神霊をおいた石が「腰掛け石」。
○前橋城主酒井雅楽頭が植えたのが木曽神社「酒井松」。
○下南室・観音様のそばを通ると落馬するので「馬落ち観音」とよばれた。
○木曽義仲の武将七人を葬ったのが「七駒塚」。
○村の娘が行方不明になり探したところ、琴平宮・大門・仁王様の口に髪の毛があった。 「仁王が人を食った」というので、仁王像を埋めたのが「仁王塚」。
○箱田・宝蔵寺の焼けた灰を葬ったのが「高井出塚(高井出塚明神)」。
○光明坊が入定したのが「光明塚」。 誰だか判らないのが「大日様」。
○昔、白蛇が現れたのが八崎「薬師塚」。 祭ってある薬師如来は火を好むといわれ、塚の上で麦わらを燃やした。
○ねっちょう喜右衛門は強力頑迷といわれ、大力持ちだった。
○源義経が奥州に逃れる時、山伏姿に身を変え弁慶を先頭に旅していた。 ある家でお茶をごちそうになったおり、長刀で石を真っ二つにしてみせた。 これが「弁慶の長刀石」。
○真壁城落城のおり侍の骨を埋めた後に植えたのが「熊野杉」。 枯れることがない、伐った人には祟りがある。
○殿様が沼田街道に並木をつくったが、一本だけ残ったので「一本松」。
○食べるものが無くなった巫女が滝の水を飲みながら死んだのが「いちっこ滝」。 一緒に旅をしていた六部に殺されたので「イチッコ滝」との説もある。
○足高橋・弁天様の滝でそうめんを冷やして食べると病が治る、ので「そうめん滝」。
○上杉憲景の奥方がこうがい(笄・櫛)を残した屋敷が「こうがい屋敷」。 この屋敷に住むには位が必要。
○田植えの馬が大石に隠れて見えなくなったので「駒かくしの石」、「キツネ石」ともよばれた。 「狐石」については、石の上でキツネが寝ていたともいわれる。
○怪力の桂昌寺活眼和尚が利根川から両脇に抱えてきたのが、門前の河原石(一個五十貫)。
○必ず落馬するといわれたのが、「管領社」。 管領上杉憲顕の遺骨を葬ってた。 その後、遺骨を越後に移したので落馬は無くなった。
○上杉謙信が木曽明神参拝のおり休んだ地が「越後坂」。
○二人の天狗が戦ったのが上真壁「天狗田」。 大岩が残る。
○八郎塚を掘ると血の雨が降る。
○塚田の佐久変電所近くには化狐が出る。
○大嵐のとき、沢ガニたちが登って避難したのが「かに松」。
○早死にした「おかめ似の美人」を葬り石を立てたのが「おかめ石」。
○相撲取りの鬼ヶ島太郎が盗賊に殺された地が「鬼ヶ島」。
○武田軍が不動山の城(白井城の出城)を攻めた時、うなり声をあげて武田軍を近づけなかったのが「鬼ヶ島の鬼石」。 結局は落城した。
☆1889年、橘山をはさんで南橘村と北橘村ができた。 橘は「立鼻」の意で 、高く突立した地形との説もある。
はじめまして、小室近辺にルーツを持つゆうたと申します。
・小室・子安観音は、十字架をかけたマリア像に似ているといわれた。隠れキリシタンがいたともいわれる。
とのことですが、
参照した文献などがありましたら教えていただけると幸いです。
投稿: ゆうた | 2019年7月 5日 22:11
たぶん下記、
前橋・勢多西の伝説
井野誠一, 井野修二 共著
出版社 あかぎ出版
投稿: yamada | 2019年7月 6日 07:08
迅速なご対応感謝いたします
投稿: ゆうた | 2019年7月 6日 22:07