峠の釜めし
団体旅行の幹事に「どこへ行っても同じような弁当ばかりで飽きてしまった」と言われたのを機に、食べ終えても捨てることなく家へ持ち帰り旅の記念となる容器として小さな土鍋を考え、土鍋一個三十八円で六千個発注。 釜飯弁当の値段は百二十円、駅弁はせいぜい百円の時代に高崎鉄道管理局では不許可だった。 そのため横川駅長黙認で駅売り、やがて1958年2月1日販売許可となった。
試作段階の弁当中身は、白いご飯に鶏 肉・ゴボウ・シイタケ・おしんこであった。 その後炊き込みご飯となり、後にご飯の上に具をのせるようになったが、松茸入りでも売れなかった。 さらに、釜が重いので売り子の評判も悪かった。
やがて、「釜めし」→「峠の釜めし」と名を変え、錦糸卵で彩り(後に鶉卵や銀杏・栗・杏)、漬物を別容器としたが、一日四十個ぼどの売り上げが続いた。
ある日、下り急行白山・下り準急高原・下り準急白樺と、下り列車で売り切れ続出しこの日で600個完売となった。 それは、文芸春秋九月号の記事「信越線横川駅の釜飯弁当はイケる。 椎茸と鳥、筍などの炊き合わせで食べでがあり、お香々も凝っている。 可愛らしいお釜もチャンと一合炊きに使えるから、どうぞお持ち帰りくださいとある。 百二十円」だった。
※土鍋が浮かんだのは、ままごとの道具からともいわれている。
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