八潮市立資料館 (1)
☆八潮市垳
他には無い地名。 八潮は、八幡村・潮止村・八條村が合併してできた。
八潮のむかしばなし
○月夜に光る丸木舟(西袋・柳之宮)
西袋の蓮華寺のわきの田んぼは、まん月の晩にかぎって、ピカッ、ピカッと光ったそうな。 何でも、そのように光るところには、丸木舟がうまっているそうな。
○たから船のちんぼつ(大原・浮塚・南川崎)
むかし、八潮は海だった。 この海をば、峰の八幡様から金銀のおたからをつんだ船が国府台にむかった。 その日にかぎって、風向きのあんべーいが、よっぽどわるかったんだなー。 ちょうど、八潮ふきんをとおりかかったところで、しけのために船はしずんでしまったそうな。
大原の三角山や浮塚の氷川様、南川崎の八反野などは、船がしずんで小高いおかになったところだそうな。 何でもそこをほれば、おたからがでるといわれるが、どんなもんかねー。
○若狭の八百比丘尼(中馬場)
上総国から行商で、このどろ水のところへ魚を売りに来ていたじい様がいた。 峰の人たちは、このじい様から魚をたくさん買ったそうな。 ある日、魚売りのじい様が、「長い間世話になったので、皆様を上総の私の家へ招待し、ごちそうしたい」との申しでをしたそうな。 そこで「一度いってみんべー」ということから、名主と村人五、六人が出かけたそうな。 行商人に教えられた家につくと、行商人の家は網元で、大層な暮らしをしていた長者であった。 何でもじい様の小づかいかせぎに行商をしていたとのこと。 村人たちは、たんまげてしまった。
「遠いところからよく来んなさった」「めずらしいごちそうをするからまー、あがれ」ということで、奥座敷にとおされた。 この家のことだからたいそうな料理がでるだろうと、内心期待していたが、なかなか料理がでない。 一人が厠の帰りに料理場をのぞくと、まないたの上に人の首がのっている。 もどってその話を聞いた村人は、「人魚をくわされてはさー大変」とおおさわぎ。 そこへ、「めずらしい魚を食べさせようと思い、手間がかかりました」と、さしみや酒が出された。 だが、誰もさしみに手を出さず、酒などをかっくらったそうな。 長者の家では旅の疲れで手がでないのだろうと、さしみを土産にもたせてくれた。 お礼をいって、帰りの船の中で村人は、人魚のさしみを海に投げすてたが、名主のじい様だけは酒をかっくらいすぎて、ふところにいれっぱなしで、家に帰ったそうな。
名主のじい様の孫娘の二人が、「おみやげちょうだい」といってじい様のふところのさしみを取りだし、くっちまったそうな。 誰ともいうことなく村人のうわさになり、その娘は器量が良くても、人魚をくった娘ということから嫁にいけず、年をとっても娘のままであったそうだ。 とうとう尼さんになり、若狭国に流れつき、何でも若狭で八百年も長生きしたそうな。
○源義光と綾瀬川(大曽根)
むかし、なんでも源義家が東国に征伐にいったとき、合戦で難儀したそうな。 義家の弟に源義光がおって、兄じゃの応援に向かうとちゅう大曽根をとおりかかった。 義光はちょうど綾瀬川のところで道にまよったんだと。 そこで休んでいたところ、北から南に流れていた川の水が、急に南から北へ流れをかえたそうな。 川がいきさきをおしえてくれたというので、その方向へ出陣し、兄の義家をたすけ、大勝利をおさめたんだと。
戦からの帰り道、出陣の方向をおしえてくれたところにたちより、橋をかけたそうな。 その橋が蛇橋だそうな。
○古池と新池(大瀬)
大瀬付近にアヤジャというべっぴんな娘っこが住んでおった。 アヤジャには、トネジャという仲のよい男がいた。 ときどき二人は川を下り、海へ出かけていたそうな。 それは、人がうらやむほどのいい仲であったそうな。 それをよからぬと思っていた下総台地沿いに住んでおったフトジャは、アヤジャを自分の妻にしようと、ちょっかいをかけたそうな。 松戸付近から大瀬のトネジャのところへ来て、アヤジャを横取りしようとした。 トネジャは、アヤジャを盗られては大変と、争ったんだと。 しょせん体のでっけいフトジャが勝ち、いやがるアヤジャを連れ、松戸へ引き上げた。 トネジャは、アヤジャをうばわれた悲しみで土中深くもぐり込んでしまったんだとよ。 そのうわさを耳にしたアヤジャは、いたたまれず、フトジャの目をかすめ、トネジャがもぐり込んだ池に来て、アヤジャも土中深くもぐり込んだんだと。 その穴も深い穴になったんだと。 村人たちは、アヤジャが二度とフトジャに連れていかれないように池の周りに菖蒲を植えて供養したそうな。 そしてトネジャの池を「古池」と名付け、アヤジャの池を「新池」と呼んだんだそうな。 それから後も、たびたびアヤジャを求めてフトジャが来たが、池に菖蒲が植えられているので近寄ることができなかったんだとよ。
古池と新池は、それはひゃっこくきれいな水がわき、大瀬の村人の飲み水になったんだと。 村人たちは、毎日、この古池と新池の水をくみに来て、アヤジャとトネジャの話をしあい、水の恵みに感謝をしていたんだと。 いつとはなく、村人の口からその話題が消えると、古池と新池の水がにごりだしたんだとさ。 それから大瀬付近では、赤ちゃけた井戸水を飲むようになったんだとよ。
○馬にまたがる八条様(八条)
今から750年まえごろ、八条様が京都から、この入谷に流されてきた。 八条様は、左大臣にもなられたりっぱな公家であった。 何かふしまつをしでかしたのだろう。 こんなかたいなかではさびしくいつも馬にのっていなさったそうな。
八条様が狩衣直衣を着て、馬にまたがり走るもんだから、里の娘っこたち、それはーおおさわぎしたそうな。 八条様がおのりになる馬は、白馬であった。 馬におのりになるおすがたはりりしかった。 馬でとおのりをなさると、中川のふちで馬を洗ったそうな。 そしてさびしくおなくなりになった。 里人は、八条様をまつるお社をたてて霊をおなぐさめした。 そのお社を、八条殿社というんだそうな。
○馬場のお諏訪様(中馬場)
むかし、信州の住人に高梨仲光という侍がおった。 戦乱であれはてた郷里をすて、武州八条の馬場に宿をとった。 その晩、宿の女房が産床にむかい、難産で苦しんだ。 仲光は、何とかしてやろうと思い、自分の肌守りの諏訪明神を臼の上にまつり、安産を願った。 ただちに霊験があらわれ、子が生まれた。 夫婦は、お諏訪様の神慮を喜び、高梨氏の逗留を願った。 高梨仲光は、ついに馬場に住まいをかまえ、堀切仲光と名を変えた。
そこで延徳三年に妙光寺の日正上人と相談をして、信州の諏訪明神を勧請し、お社をたてた。 守護神は、諏訪神社の諏訪像の胎内に安置し祀った。 諏訪大明神のご利益をもって、馬場の地では、難産になるかたが一人もなかった。 それを聞いて、近郷の人々も、お産をする者はお参りをし、社地の土を持ち帰って安産を願うようになったそうな。
○八条と新方の合戦(八条・小作田・大曽根)
八条に八条惟茂という武将がおり、八条領をおさめていた。 八条領は元荒川をさかいにし、新方領と接しておった。 その新方領には、新方頼希という領主が向畑城に住んでおり、八条氏と新方氏がなかたがいをし、戦となった。
文亀四年正月に八条惟茂は、八条領の武将をひきつれて新方領へせめいった。 これを聞いた新方頼希は、さっそく早馬で家来をあつめ、向畑城を出馬した。 勝ちいくさで進んでいた八条氏と小林であいたいした。 ここで数日間ほど戦い、地のりをえた新方勢は、八条勢を追いくずした。 勝ちにのった新方頼希は、大将みずから八条勢を追った。 あまり深追いし、ついに流れ矢にあたり落馬し、命を落した。 大将が落命した新方軍は敗たいをし、向畑城をあけわたした。 八条惟茂は、八条と新方の領をあわせおさめ、向畑城を一族の別府三郎左衛門に守らせた。 新方氏の残党がりをした八条氏は、いきようようと八条へがいせんした。 八条氏にほろぼされた新方頼希の兄に、清浄院の高賢上人がおった。 高賢上人は、八条氏を新方領からおいだし、お家の再興を願った。 永正17年(1520)10月、新方氏にえんある武者をあつめ、八条氏の家臣で向畑城を守る別府三郎左衛門に夜うちをかけた。 ふいのため八条氏はまけいくさとなり、別府三郎左衛門はふたことめもいわず討ち死にした。
八条惟茂は、新方氏のひきょうな夜うちを聞いて怒り、八条のつわものを集めた。 先陣に青柳外記と小作田隼人、柿木大膳ら850人、二陣に大相模飛騨守と西脇左近右衛ら500人、本陣八条惟茂は1,000人をひきつれ、別府へ出陣した。 永正十八年一月七日に新方領へ総攻撃をかける手はずをととのえ別府で前祝をしやすんだ。 またしても夜半、ひきょうにも新方勢が夜うちをかけてきた。 八条勢の別府や青柳、柿木らの軍は総くずれとなった。 八条が叔父大曽根上野介も大相模へ出陣しており、別府のいへんに気がつき、かけつけたが、手のくだしようもなかった。 八条の総大将八条惟茂の馬の足が切られ、自害せんと狂うおりながら、小作田隼人が馳つけ、おのれの馬に主をのせて、八条の方へおとしてやる。 小作田隼人は、ここより一歩も八条の方へは近付けぬとふん戦したが、根つきてうたれた。 敵も味方も小作田隼人の晴なる勇姿をほめたたえた。
○若柳(二丁目)
その昔、権現様(徳川家康)は会津の上杉景勝を征ばつに出かけた。 それは、上杉景勝が石田三成と通じて、家康様をのけものにしようとしたためじゃ。 下野の小山まで出兵した時、石田三成が京の伏見城をせめた知らせを聞くと、兵をまとめ江戸へ帰ろうとしたそうな。 下妻街道を下り江戸へ向かうとちゅう、二町目で昼飯をつかわれた。 食事をとり終ったあと、しげしげ箸をみながら、長い時間をかけ戦略をおたてになっていた。 とつぜん箸をば地にさして、「俺が天下をとれば、この箸が芽を出す。 天下をとれねば芽がでぬ」といい放ち、馬にまたがり江戸へお帰りになった。 そして関ヶ原の合戦にのぞまれたそうな。 村人は毎日毎日、権現様の箸を見に来たそうな。 権現様が箸をさし、一ヶ月ほど過ぎたころ、箸から柳の芽がふいた。 それを見た村人は、権現様が天下をとったことを知り喜んだ。 それから若柳と呼ぶようになったそうな。
○お茶屋寺(二丁目)
むかし権現様というえらい将軍様がおってこの付近でお鷹狩りをしなさったんだ。 そのおり、西蓮寺さんに立ち寄ったんだってさ。 きゅうのおこしで、うろたえたのは坊様だ。 田舎もんのことだからどうもてなしていいかわかんねーから、寺じまんの井戸水さー、さしあげることにしたんだ。 「田舎ゆえにこの寺にはなんにもありませんが、田舎の水はたんとあります」とさしだしたんだと。
権現様は、その水っこを「ゴクン、ゴクン」と、のどをならしながら飲み、「この水は、そち方の水か。 どうして味が良いのか」と、お聞きになったんだと。 日ごろ、ツーといえば、カーというもの知りでとおっている坊様だが、「うめーから、うめーんだ」とは、答えられねーで、口こっさーつまっちまった。 「この井戸は寺のたつみにあります。 川の水がやっぱらにしみこみ、茅が水をこしてくれるので、味がよくなります」と、お答えしたそうな。 すると、「もういっぱい所望することにして、井戸から川にむかって一町の茅野は、そち寺の寺領とせよ」とお命じになられた。 そして寺領目録を書いてくださったんだと。
その後も、代々の将軍様がこの付近でお鷹狩りをすると、西蓮寺さんのお水をおつかいになったそうな。 それから、お茶屋寺と呼ばれるになったんだとよ。
○村切り(大瀬・古新田)
古新田が村名で、ほかのような〇〇村と村をつけてねーだけだとよ。 なーんでも、伊奈代官が検地をした当時、大瀬村は本田方と新田方に分かれておったとか。 本田方には本田方の名主がおり、新田方には新田方の名主がおって、村をまとめていたそうな。 新田方は、お代官様のおふれや新田方からの書き上げが、本田方の名主の名で報告されるのがふまんであった。 新田方は、できたら村切りしたいと思い、本田方名主にお願いしても、いつもにぎりつぶされてしまったそうな。
寛栄四年に検地をしなおしたおり、村人は一村に二人の名主では村の運営に支障をきたすので、村切りをしてくれるようにお代官様へたのんだそうな。 そして村切りを許されたんだと。 村名をつける時、新田といっても本田(大瀬村)と同じように古い土地であることを忘れないために古新田としたとか。
○阿弥陀様と朱印状(八条)
八条の大経寺さんは、三代将軍の徳川家光さまから、七石の寺領をいただいた寺であったとか。 家光公は、鷹狩りがおすきで、たびたび古利根川で鷹狩りをしなさった。 そのおり大経寺さんにお立ちよりになり、本尊阿弥陀さまを参ぱいしなさった。 阿弥陀さまのごりっぱなお姿をみて、大経寺の第四世重岩上人にお聞きなされた。
将軍 「そち寺の寺は、いつ開かれたのか」
和尚 「天正15年に暁翁上人がお開きになりました」
将軍 「ご本尊は、どうなされたかな」
和尚 「京より開山上人がお持ちになられたと、聞きおよんでいます」
将軍 「わしは、伝通院から念仏堂の建立の寄進をたのまれておってなー、阿弥陀さまをご安置したいものだ」
和尚 「・・・・・」
しばらくして、寺社奉行みずからが大経寺をおとずれ、阿弥陀さまを小石川伝通院におうつしするよう上意を伝えた。 寺では、さきの将軍さまのことで、すでにかくごはできていたので、すぐに上進したそうな。
○土手まもり様(二丁目)
「上手の土手が切れそうだ」「鋤や鍬、もっこをもって氷川様さへ最寄れとの名主様からの言いつぎだ」 名主様からのお呼びということで、二町目の村人らがかけつけると、古利根川が増水し、今にも土手が切れる寸前であった。 名主様の差配で、しょしょに水防にあたった村人らは、「どうせ上手の土手は切れ所だ」「土俵さー積んでも無駄じゃねーか」という気が先立ち、水防に身が入らなかった。 案の定、土手が切れて二町目村は水びたしとなった。 今までに、どんな立派な土手を作っても、二町目氷川様の所だけは切れてしまう。 二町目の村人たちは一生懸命に立派な土手をつくり、氷川様へ堤が切れないように神頼みをしてきた。 しかし、たびたび土手が切れてしまうので、土手の修復に身が入らなかった。
築堤に身が入らない様子を見た普門院の浄西様は二度と上手の土手が切れないように願をかけて行に入った。 そのことを知った村人らは朝な夕なに普門院へ参詣し、賽銭を供えた。 その浄財で浄西様は、高さ六尺程の石仏を作った。 そして村人に、「この石仏に、二度と土手が切れないように開眼した」「石仏を切れ所の土手上に立てるから、土手を直して欲しい」とお話をしなさった。 村人たちは、石仏が流されないように、一生懸命土手を直したんだと。 それからは二度と土手が切れなくなり、村人たちは石仏を「土手まもり様」と呼ぶようになったとさ。
○又右衛門堀(八条)
「村の衆、今年こそは悪水落し堀をほって、水ぐされをふせごうではねーか」「・・・・・」「まい年、かんばつとたん水になやまされ、そのうえ高い年貢では、このままではお天道さまのもとで、暮らしちゃいけめー。 ドブッタでも悪水の堀をほれば、美田になるでねーか」
和之村耕地は、八条用水にめんしていた。 だが、テビぐらいの堀だけのため、雨がふらないとかんばつ、長雨だとたん水し、村人をくるしめた。 そこで又右衛門は、村の衆に堀のひつようを口すっぱく説明したが、だまっているだけであった。
村人のさんせいをえられなかった又右衛門は、自費で堀をほることにした。 八条用水から中川までの水田を買いもとめ、そして人夫をやとって堀をほった。 矢野又右衛門の家は、八条村の村役の家柄であったが、落し堀をほるためにむりな出費をした。 堀がかんせいし、来年こそは豊作と喜んだ又右衛門ではあったが、堀づくりの心労で病に倒れ、なくなった。 大黒柱の働き手を失った矢野家は、堀の借財をせいりして絶家した。
その後、和之村の人たちは、二度と水で苦しむことがなくなり、実りの秋をむかえると、又右衛門のことを思い出すそうな。 そして堀を又右衛門堀と呼んでいるそうな。
○大境道(八条)
八条村と柿木村は、昔から仲が悪く、八条村から嫁婿をだしてはいけないし、犬ねこのもらいもしてはいけないといわれてきた。 これは、八条と柿木の境にあった大境道が原因していた。 八条領の各村は、徳川幕府の天領で、用水の利用など仲よくことにあたってきた。 ところが、集中豪雨のおりは、八条領の上郷の悪水が下郷に流れこみ、下郷は水災に悩まされてきたが、同じ領内から水論にはいたらなかった。
いつしか柿木村外六か村が忍藩領になると、八条村とはご支配ちがいとなり、下郷の不満が高まった。 下郷の村人は、支配境をはっきりするためを理由に、古利根川から八条用水にかけて大境道をつくった。 八条の村人はこの大境道を、水害のあるたびに、忍藩領の悪水が流れこまないようにかさ上げした。
いつしか大境道は年々高くなり、りっぱな土手となった。 それとは反対に、水はけの良かった柿木村は、水がたん水するようになった。 そこで柿木村の村人は、水害がでそうになると、野良仕事に行くふりをして、大境道を切った。 八条村では、大境道が切られて水害がでるので、牡蠣殻を搗いて丈夫にし、水番小屋をたてて、土手を切るのを見張りした。 柿木村の村人は、ちょっとやそこらで土手が切れなくなり、大境道を牡蠣殻土手と呼んで目のかたきとした。 柿木の村人はこの土手を利用するたびに少しずつ削りとり低くした。 八条と柿木は、たびたび水争いをくりかえし、今日にいたった。 そのため、いつしか柿木からは犬やねこをもらうなというようになった。
○幸之宮大尽と九ヶ村落とし(西袋・小作田・松之木)
「堀をほって、西袋村のところの綾瀬川に悪水を落したらよかんべ」「古利根川の川ぞいと、大原村もちはんが高いから、西袋村で落すのはよい考えだ」 村名主たちは連署をもって、西袋村名主へ申し込むことになった。 その世話人に、幸之宮大尽があたったそうな。
一方西袋村では、「よその村の悪水をもってこられては、てーへんだ」「村人ぜんいんで反対することにするべー」と決められ、名主平太夫様から大反対をくったそうな。
幸之宮大尽は、名主平太夫様に何度もかけあった。 それは、草履八足どころのお願いでもゆるされなかったそうな。 そこで、幸之宮大尽は、お代官様に村の様子をみてもらうため、お出でいただいたそうな。 お代官様は各村をみられたあと、幸之宮大尽の家でもてなしをうけた。 「いなかゆえ、何もありませんが」といって、膳に小判をのせごちそうしたんだそうな。 それからまもなくお代官様から堀をほることがゆるされた。 村人はよろこび、「反対した名主平太夫様のお屋敷をめがけてほるべー」ときめてほった。 そして平太夫様のところで急にまげたそうな。
とくに水になんぎしていた伊草村や松之木村、小作田村などが救われたそうな。
○蛇橋(大曽根)
江戸時代の中ごろまでの綾瀬川は、後谷村から西へ大きく蛇行し、大曽根村へ深くくいこんでいた。 足立郡側は、幕府の直轄地で、小菅村には将軍様の鷹狩りのお休み所の小菅御殿があり、堤は、厳重につくられていた。 反対側の大曽根村は、森川下総守様の領地で、よく土手がきれ、洪水にあったそうな。 秋の収穫のまぎわに、村人は、豊年万作を祝う秋祭りの準備と獅子舞いの練習に余念がなかった。 反対に大曽根の名主新八だけは、秋のとり入れ前にうかぬ顔をして、村めぐりをしていた。
ついに名主新八が心配する長雨がきて、川幅のせまい綾瀬川は大増水し、いまにも氾濫しそうになった。 名主新八は、大曽根村を水から救うため、獅子舞いの獅子頭をかぶり、腰に長い布をたらし、竜にみせて花又村におよいでいった。 上野輪王寺領の花又村の村人は、大曽根村が決壊寸前なので、今年も土手の心配がないと安堵していた。 ところが、一匹の竜が大曽根村からうねりながらわたってくる。 一目散ににげ、遠くのほうで見ていると、竜が土手を切りだした。 将軍様からお預かりしている土手が切られたら一大事と、とって返すと、獅子頭をかぶっているのは大曽根村の村人である。 とんでもない野郎だ。 なぐるやけるやで、片目をえぐり、濁流の中へたたきこんだ。 花又村が、大出水となり、幕府の役人が調べてみると、大曽根村の名主が堤を切ったとのこと、名主の家は、竹でかまえられてしまった。 この悲惨な出来事に老母は気が狂い、毎晩「新八や蛇になれ、わしも蛇になる。 親子とも大蛇になり、恨みをはらすのだ」とさけびながら綾瀬川に身を投じた。 その後、二匹の大蛇はふきんをあばれまわり、村人さえもよりつかなくなった。 あるとき、江戸の役人浅田近右衛門と妹のしづが船にのり、大曽根村へさしかかると、片目の蛇と白い蛇が浅田近右衛門にたちむかってきた。 近右衛門は刀を抜き、切ってすてようとし立ち上がると、船が転覆し、妹しづがゆくえ知れずとなった。 いろいろ調べると先のような話で、このことを将軍吉宗様に報告し、金五両を下賜され、「蛇橋」「蛇塚」をつくり供養したという。 それから蛇はでなくなったそうな
※名主忠八とする咄もある。
○がけ溜のお先さん(垳)
その昔、何やら徳川中ごろというが、スマートな器量よしの「お先」というキツネが、がけ溜にすんでいた。 ある時、キツネ仲間の寄り合いがあった席上で、お行塚にすんでいた「ジューコー」というキツネがお先を見初めたが、告白がどうしてもできず、思いはつのるばかり。 日夜ときを選ばず「コンコン」と泣いたり、がけ溜の縁にきてはじゃがみ込み、魚をとるでもなく、ガックリ肩を落とす空虚な姿。 まさしく極度のノイローゼになった。 その哀れな姿をみかねた近くにある若柳稲荷のお使い番頭で「ゲンノジ」という格式の高いキツネが中に入り、がけのお先の両親に何回となく話をもっていったが、当のお先は知らないこと。
「縁のない話はいたしかたない。 」と両親から断られ、片思いのショックで、ジューコーは穴にとじこもったままの毎日が続いた。 お使い番頭のゲンノジに「けっしてお先を恨むではないぞな」とさとされたものの、穴をはい出る気力もない。 そんな話を聞いた村人たちは、「ジューコーがあまりにかわいそう」とだれ言うとなく野良仕事の帰りは、おやつ、ごはんなどを穴の入口に置いてやった。 いく日かが過ぎ、正気に戻ったジューコーは、村人の好意に深く感謝し、村人が見下ろせる小高いお行塚の上に立ち、尾を上に向けると晴れ、左右に振れば雨、丸めると風というように毎日の天気を知らせ、村人たちの恩にむくいたという。 一方、お先も、亀有の矢沢の森のキツネを夫に迎え、かわいいい子だからに恵まれ、幸福に過ごしたという。
○流れ大師(古新田)
昔、この付近が大水にあった時、お大師様が古新田に流れついた。 村人は、弘法大師様が古新田に流れつかれたのは、何かいわれがあるのだろうと思い、大師堂をたてて安置することになった。
お大師様は、大水で流されてきたために、みすぼらしく傷んでいた。 そこで流山の仏師屋に修理してもらうことになった。
寺の世話人たちがでかける日、あいにく朝から風が吹きあれていた。 そのために江戸川の幸房の渡しは、朝から船が出せずにいた。 世話人たちは、この風で渡し船に乗れるか心配であった。 ところが、幸房の渡し場につくと風がピタリとやんだ。
渡し船が流山につくと、もとのように風が吹きあれた。 世話人たちは、これはお大師様のおかげかと思った。 ところが、修理をおえて帰るときも同じようなことがおこったので、世話人たちが霊験あらたかな大師様であることを信じたそうな。
○江戸城二重橋の木(西袋)
江戸幕府は、江戸城西の丸の二重橋かけかえのために、橋材の調達を命じた。 代官平岩右膳は、各触元名主へ橋材になりそうな大木の調査をさせた。 八条領触元名主平太夫は、領内の各村に古木書きあげの提出をつげた。 ところが各村からは、大木がないとの報告をうけた。 代官は、八条領内一の陣屋の木を出すようにおおせつけた。 西袋村名主平太夫は、村人にそのことを相談すると、「それは、あんまりだ。 西袋村の陣屋のうちのけやきは、村の目印の木だ。 その木を切られちゃー、村の位置さーわかんなくなってしまうだ」「そうだ。 どこの村でも古木は、ご神木になっているだ。 陣屋の木を切られちゃー、村にどんな災いがおこるかしんねー」などと反対をされた。
そこで名主は、代官に、「西袋村の陣屋の大木は、村が水につかったおりのひなんの木であります。 そのため、大木をぜんぶ切るのではなく、一本だけはのこしてくれませんか」とお願いをし、ゆるされた。 そのことを報告すると村人はたいへんよろこんだ。 大木の切り出しから荷送りは、村人そう出の仕事となった。 切った木を笛や鉦のなり物にあわせて江戸城へ運んだ。 そして江戸見物ができた西袋の村人のじまん話の一つになった。
☆小菅御殿と籾倉・小菅1
寛永年間関東郡代伊奈半十郎が、三大将軍徳川家光より下屋敷として下賜された。(後の東京留置所) 元文元年八代将軍徳川吉宗の命により屋敷内に御殿を造営して・鷹狩りの宿泊所となった。 寛政四年伊奈家は家中不行届により御家断絶、小菅御殿は召し上げ、天保三年跡地に江戸町会所籾倉が建てられた。 その後明治維新により小菅県庁、さらに東京集治監獄(東京留置所)となった。
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