羽黒権現宮
上戸田氷川神社の創立は、縁起によると永徳二年と伝え、古くから旧上戸田村の鎮守として祀られてきました。 祭神は、素戔嗚命で、明治六年に村社となり、明治四十年に旧上戸田村にあった羽黒社、道祖神社、山王社、稲荷社などを合祀しています。
境内には、寛政十年の銘がある石造の大鳥居や、延宝元年十月造立の市内で最も古い庚申塔があります。 羽黒社は合祀されていますが、以前はボートコース下流の水門の付近にあったと思われます。出羽三山信仰のひとつ羽黒山大権現を勧請したものです。この社は、天保年間に刊行された『江戸名所図会』にも挿絵入りで賑わった様子が紹介されています。
また、「江戸日本橋」と銘のある手洗石や、当時の若者達が力自慢に差し上げた力石、文政七年の銘がある「涼しさやほの三日月の羽黒山」と刻まれた芭蕉の句碑などが移されています。
Le Japon illustré t. 2 / Humbert, Aimé
○蘇民将来
むかし上戸田村の荒川近くに、羽黒山のお宮がありました。 このお宮は、塚のような高いところにあって遠くからもよく見え、とても景色がよかったので、中山道をとおる人たちは、ここによって名物のおだんごを食べるのが楽しみになっていました。 そのうえ、お宮から「蘇民将来」というありがたいお守り札がいただけるというので、境内はいつもおまいりの人でにぎわっていました。 このお守り札のいわれは、ずっとずっと古いことです。 むかし武塔天神という神さまが、北のくにから南のくにへ行く途中で夜になってしまいました。 どこか泊めてくれる家はないものかと、しばらく歩いていくと、むこうに家が二軒見えました。 それは「将来」という兄弟の家でしたので、神さまは、はじめに弟の巨旦将来というお金もちの家にいき、泊めてもらいたいとたのみました。ところが、弟の巨旦将来は思いやりのない人で、だめだ!とことわってしまいました。
神さまは、しかたなく今度は兄の貧しい蘇民将来という家にたのむとその家はみんないい人ばかりで、親切に泊めてくれ、そのうえ、たくさんごちそうをつくってもてなしてくれました。 神さまは、「お前の家は心がけのいい家だ、いつまでも守ってやろう」とおしゃって、これを入り口へはっておくようにと、紙に「蘇民将来子孫家也」と書いて渡してくださいました。 その夏、悪い病気がはやり、弟の家はみんな死んでしまいましたが、親切だった兄の蘇民将来の家では、みんな元気よく暮らすことができましたので、いつまでもいつまでも栄えたということです。 いまはこのお守り札をはってある家が見られませんが、むかしは戸田にも、蘇民将来の子孫がおおぜいいたかもしれません。
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