稲付城跡
☆稲付城跡
稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。 1987年、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間末頃から天正十年頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。 また、静勝寺に伝存する貞享4年の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。 明暦元年に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。 その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
☆静勝寺の坂
参道の南にあるカーブした急坂。 樹々に包まれた静かなたたずまいである。寺は稲付城跡にあり太田道灌の木像が安置されていて、この丘を道灌山といい親しまれている。
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