小沢城跡
川崎市の西北端、稲城市の市境を接する丘陵上に小沢城跡はあります。「新編武蔵風土記稿」の伝えるところによると、鎌倉時代初頭の小沢城は、小沢小太郎の居城であったようです。 小沢小太郎は源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子で、この地域の支配にあたっていたものと考えられます。
丘陵地形が天然の要害を形づくっているこの地は、鎌倉道が通る交通の要衝(ようしょう)で、多摩川の広い低地や河原をひかえていたため、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になりました。 なかでも、鎌倉時代末の元弘三年鎌倉討幕のために挙兵した新田義貞の軍勢が、激戦の末、幕府軍を打ち破って鎌倉侵攻の突破口を開いた分倍河原合戦は有名です。
また、南北朝時代に入ると、観応二年(北朝の年号)・正平六年(南朝の年号)に足利基氏が、小沢城に籠もった足利直義の軍勢を攻め陥した戦い、さらに戦国時代にいたっては、北条早雲らが山内上杉顕定を破った合戦などがあり、後北条氏と上杉氏との勢力争いの接点となっていました。
享禄三年、武蔵最大の支配力を持つ上杉朝興に対し、後北条氏の軍勢は小沢城に陣を張って、これを迎え撃ち撃破しました。これが北条氏康の初陣で、世にいう小沢原合戦です。
現在、小沢城跡は緑地公園として保存されており、その中には空堀や物見櫓、土塁などと思われる城の遺構が残っています。 これらの遺構は室町時代に築かれたものであろうと考えられます。また、ここには城・城下・おきの鍛治屋などの地名も残っていて、小沢城が居館・居城であった頃のなごりを今に伝えています。
分倍河原古戦場跡
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