きんつば
☆榮太樓總本舗
文政元年に飯能・細田徳兵衛が九段下に井筒屋開店(屋台)、拳煎餅(瓦煎餅)を売り出した。
安政四年四月二十九日に日本橋に榮太樓總本舗創業、三代目細田安兵衛(栄太郎)が日本橋に和菓子店を構えた。 大福やきんつばが好評で、客達が「栄太郎」とよぶので店名を「榮太樓」とした。
梅ぼ志飴は有平糖の製法で作られ、棒状に伸ばした飴を鋏で切り・成形して売っていた。 その色・形が梅干しに似ていたので「梅ぼ志飴」となった。
※安太郎(後の初代安兵衛)と安五郎は、細田徳兵衛の孫
※日本橋本店の御影石は安政四年の敷石らしい。(真鍮製の目地は当時の店の大きさ)
☆榮太樓總本鋪
三代目細田安兵衛(榮太郎)が白木屋前伴傳兵衛の軒先に屋台を出し菓子・金鍔を売った。 その後日本橋西河岸町に店を出し「井筒屋」から「榮太楼」と改称。
※栄太郎屋台の隣は森村市左衛門の屋台(後のノリタケ)だったといわれる。
※米粉で作られたものが銀鍔。
※店の看板は高橋泥舟筆だった。(現存しない)
※井筒屋初代細田安兵衛が金鍔で儲けた金で作ったのが「梅ぼ志飴」。
☆甘納豆
幕末の江戸、三代目細田安兵衛が「甘名納豆」を創製した。 当初は日本橋河岸で屋台売り(金鍔・きんつば)だったが、安政四年店を構え・屋号を井筒屋から榮太樓に改称した。
※安政五年、榮太楼初代細田安兵衛が日本橋にて、「金時ささげ(埼玉産)」で作った菓子が浜納豆に似ているので「甘納豆」と名付けた。
☆きんつば・銀鍔
江戸時代前期、京都清水坂で米粉生地で餡を包んだ銀鍔を売り出した。(刀の鍔の形だった) これに対し江戸では、小麦粉で餡を包み金鍔として売り出し、後に角形の「きんつば(みめより)」となった。
※江戸時代、刀鍔師が大名に金無垢の鍔を頼まれ、外は金・中は鉛の鍔を納めた。 しかしこれがバレて打首になった。 これが菓子「金つば」の始まりというのが、榮太樓總本舗説。
☆みめより
江戸時代中期、浅草馬道で「みめより」販売。 見た目より心・見た目より中身、の意。 当時の「きんつば」が円かったのにたいして、「みめより」は四角かった。
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