井沢弥惣兵衛為永
○武陽埼玉郡見沼代用水路伏越樋上平野地内柴山村之真景 木造の水路を元荒川底に埋めた。
☆井沢弥惣兵衛
八代将軍吉宗により登用された弥惣兵衛は享保十三年見沼鴻沼等を干拓し、利根川右岸の下中条村(現行田市)から約60kmにわたる用水路を開削した。 これにより、約千二百町歩の沼沢地は水田に生まれかわり、周辺の村々に多大の恩恵をもたらした。 さらに、享保十六年八丁堤の北側に見沼代用水と芝川を結ぶ通船堀を開削し、用水路を利用した船運が開始され、地域の商品流通の促進に寄与した。
○柴山伏越
常福寺橋・白岡市柴山1094
元荒川と見沼代用水の交差地点で、元荒川の川底を見沼代用水が抜け出る構造になっています。 これは、流体を低い所に落とし・元の高さまで押し上げる連通管の理論を応用したものです。 この伏越は、享保十二年に井沢弥惣兵衛為永によって「紀州流」という土木技術でおこなわれました。 当初、伏越地点では伏越と掛渡井(元荒川の上を樋によって通水する)がおこなわれ、舟運にも利用されていました。
井沢弥惣兵衛見沼代用水工事のおり、貨幣(一文銭?)を瓶に入れ・一握りで掴めるだけの賃金(現在額で日当数千円程度)を支払ったともいわれる。
井沢弥惣兵衛(伊沢家)は紀伊国那賀郡溝ノ口村(現・和歌山県海南市野上新)の出身。 坂東家は紀州名草郡加田村出身、三代助右衛門尚常は享保十四年には幕府より見沼代用水東縁の新染谷の用水取り入れ口の見守役と・そこから木曾呂までの用水路の見廻役を命ぜられていたことから、井沢弥惣兵衛は坂東家に親しく出入りしていたらしい。
○万年寺・萬年寺
さいたま市見沼区片柳1-155、048-683-2258
☆龍燈松・竜神燈
龍神が境内松の頂に燈を高くかかげたらしい。
☆万年寺の竜神灯
井沢弥惣兵衛が竜神の霊を慰めようと建てたのが竜神灯、毎晩竜神が美女に化けて灯をともしたが、その姿を見られた後竜神は見沼を去り諏訪湖へ向かったともいわれる。
☆万年寺・井沢弥惣兵衛頌徳碑
☆見沼の竜神様
見沼干拓の命を受け、大宮大日堂を詰所とし寝泊まりしていた井沢弥惣兵衛の枕元に女が現れ「工事の取りかかりを九十九日間延ばす」ように願った。 弥惣兵衛が忘れてしまうと、事故が続き・けが人が続出・死人までで、弥惣兵衛も寝床についてしまった。
ある夜家来が弥惣兵衛の寝床を覗くと、蛇身の女が弥惣兵衛の体をなめまわしていた。 さすがに弥惣兵衛も怖くなり、詰所を片柳万年寺に移し・しばし工事を中断し、回復を待った。
※見沼干拓後、葬列が門前を通ると・突然暴風が起き・棺桶が空に舞い上がるので、開かずの門とした。 今は開いている。
※かつては、井沢弥惣兵衛と見沼の竜神の霊を慰め・五穀豊穣を祈願する行事があった。
○常福寺・白岡市柴山1103
元文三年三月一日死去。 墓は千代田区麹町の浄土宗心法寺・法名は崇岳院殿隆譽賢巌英翁居士。 心法寺の墓石には「俗名井澤彌總兵衛爲永行年七十六」とあり、享年が正しいとすると寛文三年生まれになる。 また、見沼代用水流域の埼玉県白岡市・柴山伏越近くの常福寺にも分骨された墓がある。 さいたま市見沼区の萬年寺には、文化十四年に弥惣兵衛の功績を称えて「頌徳碑」が建てられた。
子の楠之丞正房も弥惣兵衛を名乗り、元文四年に手賀沼新田方となるなど、父と同様に治水で活躍した。 さいたま市緑区の見沼自然公園に井沢弥惣兵衛の銅像が建てられている。
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