江戸風情:湯屋
○湯舟
本所・深川は、埋立て地であり井戸を掘っても塩水が出るので、堀割りを利用した湯舟(舟湯)が巡っていた。
○丹前風呂
慶安・明暦年間、神田雉子町・堀丹後守屋敷門前の「丹前風呂」、湯女をおいた遊興風呂だった。
※混浴は、明治二年二月二十二日・東京府下で禁止された。
☆混浴、入込湯ともいわれた。
☆洗い湯
蒸風呂の一種に塩風呂というのがあったらしい。
※蒸風呂に対して湯船に入るのは「水風呂」。
☆行水
入浴における行水とは、湯のこと。
☆風呂屋
天正十九年頃、江戸銭瓶橋付近に銭湯開店。 蒸し風呂につき、男は風呂褌・女は湯文字着用のこと、蒸気で身体を蒸して・湯女が竹箆で垢を掻き落とした。 宝永頃、無褌で入る「湯」が登場した。 江戸には井戸が少なく、このころの湯は混浴(入込み湯)であった。
※湯に入るときは、「冷えものでございます。少々ごめんください」が決まり言葉だったらしい。
☆江戸の湯屋
強風の日は休業。 老人が頓死した翌日は休業。(かなりあったので、老齢者の一人入浴禁止のところもあった)
☆入り込み湯
男女混浴。 水が豊富ではない上、火災防止から軒数が制限されいた。 寛政の改革で「男女入込停止」となり混浴全面禁止なるも、明治時代まで一部か残った。
※別湯の湯屋・女湯専門の湯屋もあった。
☆銭湯
天政十八年、伊勢与市が銭瓶橋付近に風呂屋開業、入浴料は永楽銭一文であった。
☆江戸時代の銭湯、防火用水の役目もあった。
☆銭湯
将軍が通る際、道筋の銭湯は臨時休業を命じられた。
☆入込禁止
明治二年二月二十二日、東京府觸にて男女入込禁止。
☆風呂敷
古くは一反の布を等分して作ったので、わずかに長方形だった。 古くは袱紗、風呂場で脱いだ衣類を包んだ。 ある大名が、風呂あがりに床に敷いて休んだので「風呂敷」とよばれるようになったとも。
☆座布団
座布団には、前と後・表と裏があり、正確な正方形ではない。
☆移動風呂・沐浴屋
日清戦争頃移動する日本軍の後ろに続き、野営地にて兵隊相手に移動風呂屋営む者あり。 大儲けしたらしい、もちろん大阪商人。
☆風呂屋
江戸の風呂屋経営は越後人・大坂の風呂屋経営は加賀人、が多かったらしい。
☆湯屋・中央がざくろ口(石榴口)
石榴口とは、湯屋の洗い場から湯船への入口、門のような部分を指す。 板壁の下が開いているような感じだ。 人はここを身をかがめて通ることになる。 なぜわざわざこんな不便な構造にしたのか。 浴槽の熱がなるべく外に逃げないようにして湯がさめないようにするための工夫だ。 江戸時代の省エネ対策ともいえる。
当時の鏡は銅製で、日頃から磨いていないとすぐ錆びてしまう。 そこで鏡を磨くために使ったのが石榴の実だった。 かがんで入る、つまり「屈(かがみ)入る」に「鏡要る・鏡鋳る」を掛けたということらしい。 石榴口の形状は鳥居(神社)を模した。
正月初湯には、祝儀をおひねりにして三方に置いた。
鏡磨
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