群馬での暮らし:神流川
《グンマを話そう》
○神流川
日本武尊は、旅の途中で妻の弟橘姫を亡くしたのを哀しみ、姫の髪を形見として懐に入れていた。 そして、秩父から志賀坂峠を越え上野村 野栗についた時に、野栗神社を建て髪をおさめ臣を使えさせることにした。
ある時、野栗に悪病が流行ると、村人達はご神体(姫の髪)を清めようと川に流した。 この後、この川を「髪流し川」そして「神流川」と呼ぶようになった。
○野栗の神(上野村)
ある昔、武州秩父の山奥から神々軍団が信濃路にむけて進軍中、奥多野の山中で一休みした。 そして出発する際に、一人の女神が七尺ある自分の髪の毛を切って傍らの木に掛けて立ち去ったのり、地元の人々はお宮を造って祀った。 その後女神が帰路立ち寄りそのままお宮に鎮座されたので「残りの宮」とよび、やがて「野栗の宮」とよばれるようになった。
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また一人の女神は七十五人の御子達と手をつないで徒渡りした際、流れがせき止められあふれたので女神の下の毛が長く川水に流れた。 女神はあわてて裾を押さえた、と同時につないでいた手を離したので七十五人の御子達はながされてしまった。 すなわち「神が流された川」→「神流川」となった。 やがては、流された御子達は、七十五社に分かれて祀られた。
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