多胡の碑:羊太夫
《グンマを話そう》
○羊太夫
「多胡の碑」は1300年ほど前に作られたもので、村人は「羊さま」と呼び信仰してきました。 かつてこの地に八束城があり藤原将監勝定という城主がいました。 子供がいない勝定夫婦が大沢不動にお参りした満願の夜、白髪の老人が現れ「この子羊を与える、大切に育てよ。」と言いました。 やがて、羊年・羊刻に男の子が産まれ「羊太夫」と名付けました。
文武に優れたこの若者は、やがて父の後を継ぎ八束城主になりました。 ある日、羊太夫は韋駄天のごとく若者をみつけ家来にしました。 この若者は「疾足小脛」と呼ばれ、奈良の都を日帰りして奉公しました。 このおかげで羊太夫一族は、朝廷の信頼を得、ますます栄えていきました。
奈良への帰り道、羊太夫は休んでいる小脛の脇下に何かをみつけました。 小脛との約束「自分を裸にしないでください」を無視し、脇下から羽を抜き取ってしまいました。 それ以来、小脛は走れなくなり、朝廷の信頼も失い、ついには反乱と見なされ八束城は落城しました。 羊太夫は金色のチョウに身を変え・トビに身を変え池村へと飛んでいきました。 その先が「多胡の碑」のある所と言われています。
※和銅四年(711年)多胡郡ができ、碑には「羊給」と刻まれているので「羊さま」として親しまれている。
上野三碑
○多胡碑
711年、甘楽・緑野・片岡の三郡から六郷三百戸を割いて新たに建郡された記念碑。
※多胡碑の傍から見つかった石槨の中の銅板に[JNRI]なる文字があるらしい。 これについては、[INRI(ユダヤびとの王ナザレのイエス)]が正しく、キリスト処刑の図にもこの文字が見られるらしい。
○金井沢碑
723年、三宅(屯倉)の子孫が祖先父母のため仏教に帰依して信仰を誓った石文、先祖供養に一族結集を示す記念碑である。
○山ノ上碑
681年頃、放光寺の僧がその略系を刻み母の供養をしたものといわれる。
☆多胡碑
宝暦四年高橋道斎が吉井の薮の中に転がっている石碑を見つけた。 それは地元の人たちが「羊さま」として崇敬していたものであった。 道斎は拓本にとり江戸に持っていき、著名な学者達に認められ、多胡碑となった。
コメント