高崎だるま
○高崎だるま
天明三年の浅間山焼けで天候不順となり苦しんだ農民の励みとなるよう、少林寺東嶽和尚自ら木型を彫り・紙張りだるまの「起上小法師」の作り方を伝授した、といわれている。
*高崎だるまは、かつて豊岡だるま(福だるま・縁起だるま)とよばれていた。
○だるまの起源
起き上がり(起上小法師)の起源は、中国の酒胡子と不倒翁という玩具であった。 酒胡子は、回して倒れた方向にいる人は盃を受けねばならない、という座興玩具だった。
江戸時代に疫病が流行り、特に女性・子供にとって疱瘡や天然痘のあとが顔に残ることは死に匹敵するものであった。 疱瘡は赤色を好むといわれ、赤く塗られた「起き上がりだるま」が疱瘡除けとして登場した。(起き上がる・早く治る、の意もある。上方では猩々起き上がりであった。) また、達磨大師が性神として信仰された時代があり、遊里では真っ赤に塗った陽根を縁起棚に飾ったともいわれる。 やがて薬ができ疫病が減り、疫病除けの役目は終わった。
1800年頃上豊岡村の山県友五郎が、少林寺達磨寺の配り札にヒントを得て、東嶽和尚にだるまの木型を彫ってもらい、紙張り抜きのダルマを作った。 後に、漉いた紙を張るようになった。
こうして、農家の農閑期の副業として細々と作られ、少林寺達磨寺の七草縁日で売られた。 1899年14軒だっただるま製造業者は1923には40軒となり、やがて市が開かれ・交通が発達し・宣伝などで広く世に知られ、1971年には群馬県達磨製造協同組合となった。
(少林山達磨寺・1929年正月)
☆達磨忌
十月五日は達磨大師りーの忌日。
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