倉淵村伝説(現高崎市)
○蚕の始め
子供が欲しい長者が願掛けして授かったのが「玉代の姫」、しかし寿命十六年と定められていた。 長者は一生懸命育てたが、いよいよ十六歳になった日、あばれ馬が姫を蹴飛ばして終わった。 長者は悲しみ・毎日ぼんやりとしていたが、ある日膝に白い虫と黒い虫が八匹ずつとまった。 何をくれても食べなかったむしだが桑の葉だけは食べた。 これが蚕の起源である。
※この結果、蚕には馬蹄計の模様と黒い点が16ある。(16歳の意)
○「烏川」の起源は、源流が鳥の嘴状の「烏口」という大岩から清水が湧き出ているといわれる。
※日本武尊命が碓氷峠で水に困っていると烏が水場に案内してくれた、との説もある。
○落合の双体道祖神は「このような彫り物を造ると死ぬ」とさえいわれていた。
※倉淵村は「道祖神の宝庫」ともいわれ、その数80体以上とされる。
※中原村道祖神・中原部落から落合部落へ引っ越したとされる。(1760年作)
双体道祖神伝説1
1760年暮れも押し迫った十二月下旬、一人の石工が中原村一里塚にさしかかった。 まわりを見ると、人影もなく貧しそうな部落であり、村には貧乏神と病魔が住み着き、村中病魔に犯されていた。 村には道祖神が無かったのである。 そこで石工は、正月に間に合うようにと、村はずれに小屋掛けし七日間一心不乱に心魂込めて刻み続けた。 十二月三十一日、ついに道祖神が完成した。 村人たちは小躍りして喜んだ、そして唖然とした。 こうして中原村は元気になった。
双体道祖神伝説2
宝暦年間、倉淵村中原の地主甚兵衛の息子大助が嫁をもらったが、クソッカテエ(生真面目すぎ)て来る嫁くる嫁とも長くは続かなかった。 そして七人目に遠く離れた碓氷から「おせん」が嫁いできた。 おせんの並々ならぬ努力の結果、幸せの一家となった。 ところが、「おせん」こそ甚兵衛が里子にだした大助の実妹であった。 悲しみに暮れた大助が建てたのがこの双体道祖神といわれている。
☆道祖神責め
ある昔、お婆さんが川のそばを通りかかると、子供達が大勢で道祖神石像を縄で縛り・川の中へ沈めたり・棒で叩いたりしていた。 見かねたお婆さんが「そんなに道祖神様をいじめるな!」。
しばらくして病気になったのは…お婆さんだった。 「子供達と遊んでいたのに、邪魔をしたのはアンタだ!」
※道祖神祭り(ドンドン焼き)には、道祖神を引き回して遊んだ地域もあったらしい。(南新井)
※道祖神は子供の神様ともいわれ、「道祖神子じゃしかたがない」といたずらを黙認されるることも多かったらしい。
☆ばちあたり村長
地蔵様に縄かけて引っ張ったり・小便をかけている子供達をみた村長が、地蔵様の周りを囲い子供達が近づけないようにした。 やがて、村長は病で寝込み、薬でも医者でも治らなかった。 そしては枕元に出た地蔵様が「毎日楽しく子供らと遊んでおったのに」。
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