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高崎伝説(1/3)

Gunma_takasakishiro○倉賀野
 倉賀野は舟運で栄えた町であり、米や穀物も多いのでネズミもおおかった。 しかしネズミを殺すのは忍びないと、安楽寺に「鼠供養塔」を建てた。

○目青竹(鼻高)
 小林爺婆が仲良く香煎を食べているところに来た老翁(一沙門とも)が、森に向かって竹の杖を飛ばして根付いたのが「逆さ竹」、「目青竹(金明竹)」ともいう。 この地に創建したのが上野国一社八幡宮、857年鎮座とされる。

○少将桜(慈眼寺)
 前橋城主酒井阿波守親本が「しだれ桜」を城内に植えたところ、咲くことなく、夜には花の精が泣いたので、もとの慈眼寺に戻したとされる。 
※慈眼寺は開山1200年以上、しだれ桜は二代目。

○山名八幡の獅子頭
 山名八幡宮は応神天皇を祭神とする郷社、安産守護神・子育神である。 狛獅を模した獅子頭をかぶる。

○黒馬
 妙義・松井田では木彫りの黒馬を売っていた。 頼政神社の白と黒の木馬二頭が烏川で水を飲んでいた・そのうち黒い一頭が妙義神社まで行った、ともいわれるが詳細不明。

○豊岡の福達磨
 富岡の村人が配り札から思いつき、東獄和尚に頼んで達磨を彫ってもらい、張り子の達磨を少林寺縁日で売り出した。 高崎達磨の始まりともいわれている。

○はす池(中宿)
 栄朝禅師が中宿の碓氷川を渡ろうとしたが、夜になったので辺のお堂に泊まった。 すると夜中、庭の池から一本・二本・三本と次々に蓮の花が咲きだした。

○飽馬神社(東秋間)
 日本武尊命が東国征伐に向かう途中、鐙をはずし・馬から下り・石に腰を下ろし、一言「馬に乗るの飽きた」。 なので「飽馬」、つまつて「あきま(秋間)」となった。

○威徳神社(下後閑の天神様)
 下後閑の山麓の梅の花は白であったが、ある年赤く咲いた。 すると、天神様のお使いと称する子供が現れ「この地が気に入ったので社を祀るように」と言った。 そして、村人達は京都北野天神から天神様を借りてお祀りした。

○鰻橋
 弘法大師が大雨で増水した川を渡れないで困っていたところ、水の中から大鰻が現れその背中を橋代わりに川を渡った。

○葬塚爺さん(安中)
 上野尻・龍昌寺の葬塚婆さん(葬頭河婆・奪衣婆・しょうづか婆)は背丈1mもないが、夜になると歩きだしその背丈は16丈(50m以上)であった。 そのくせ寂しがりやで・その形相故話し相手もなく、我慢できずに「おじいさ~ん」と叫ぶようになった。 これに困った村人が「葬塚爺さん」を隣に建ててやったところ静かになった。

○笠松の道祖神(西上秋間)
 どこにもない姿の道祖神を作ろうと石工が彫ったのは、「餅つき道祖神」。 頼んだ村人達の反応は悪く、嫌気がさした石工は村を去った。 そして、いつしか傘松村には誰もいなくなった。

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