赤城村伝説(勢多郡赤城村、現渋川市赤城町)
○湧玉には白蛇が住んでいる、汚したり・不浄物を洗うと祟りがある。 雨乞いだけはきいてもらえる。
○勝保沢の清水側に住んでいた「お哲」は超美人だったので、弁天様とよばれた。 その地では、女の子が産まれると「お哲」と名付けるのが流行った。
○おとうか久保には、オトウカが出た。
○上三原田・三島山の大松の木には天狗が住んでいた。 音を聞いた人も多い。
○戦の時、内出城内の松に登り情勢を眺めたので「物見の松」。
○二城主見立権太郎が仲井の田のくろを枕に切腹したので「枕田」となった。 田には祟りが残る。
○北上野にあった寺の和尚が化け物に襲われ涙を流した。 その涙が泉となり、「寺の川」とよばれた。
○北上野・うらの坂を夜通ると、茶釜を転がす音が聞こえた。
○上野では、しょうでん様が嫌うので雄馬を飼ってはいけない。
○阿倍貞任の妻が利根川に身を投げたさい、衣は子持村に・体は敷島に上がったので手厚く葬ったのが「御前様」。 衣が白郷井村伊熊の淵・体が猫の河原に上がった、との説もある。
○観音田に田を作ってはいけない。
○下河原の利根川淵にある二つの大岩に大蛇がはい上がった。 二つの岩の間は深い淵になっており竜宮に通じている。(竜王の岩)
○曽我兄弟が仇討ちをしたとき、御所五郎が止めた責めを負って住みついたのが「御所谷戸」。 森には天狗がいる。
○武尊の神が沼田湖を切り開いてできたのが綾戸の峡谷。 鳥仏師の説もある。
○須田家先祖の兄弟の弟が、屋敷稲荷に願掛けし江戸で相撲取りになった。 これが、横綱・佐渡海。
○源義経が弁当を食べ箸を地に刺したのが根付いて「二本松」になった。
○婆が塚の回りを、息を止めて三回まわると鬼婆が出る。
○津久田城は、北条方狩野氏の居城だった。 後に廃城。
○不動院の田は耕作してはいけない。
○利根川洪水で流れ着いた地蔵様を祀ったので「地蔵河原」。
○1577年、北条氏と上杉氏合わせて六万勢が戦ったのが「洞遠が原」。
○橋のない沼尾川を、石を飛び伝いに渡ったので「はねんど」。(はねて渡った)
○長井・小川田字鳥山の崖下岩窟にはムジナが住んでいた。
○長井城は北条氏家臣の居城だった。(天正時代) 1590年廃城。
○吾妻中山城主中山勘解由左衛門尉宗国の石塔があるので「勘解由の松」、傷つけると祟りがある。
○死んだ馬を捨てたのが、そんまくぼ(損馬窪)。
○長井城落城のとき、落ちのびた城主一行が一つの釜で最後の食事をしたところが「たんがま」、炊釜が訛った。
○権兵衛の先祖は新田氏の家臣、帰農したのが年丸・権兵衛屋敷。
○二城山城主見立権太郎がいたので「見立」という地名になった。 戦で家来十三人が戦死したので「十三塚」。
○天狗が住んでいた、天狗の腰掛けもあった。
○樽や宮田が美しく見えた地を「ほこり(誇り)」とよんだ。
○上郷に上る坂は急だったので苦労したので「くろさわ」となった。 ※くろうさわが訛った。 天狗が住んでいたのが天狗屋敷。
○諏訪神社の御神木を伐ってはいけない。
○利根川では年間365人水死したので「利根の坂東太郎は一日一人食う」といわれた。
○深山には、村半分を日陰にするほどの大欅があった。
○昔、深山部落は二里場間にあったが、耕作地がないので山を下りた。 深山の五郎屋敷は鍛冶屋跡。
○大御堂・みぞろが池の主大蛇が赤城小沼に引っ越した。 このとき、嵐が起き・水が溢れ、大御堂の鐘が流れ出し筑波山麓に流れ着いた。それで鐘をつくと「溝呂木恋しやゴーン」と鳴る。
○昔、久保・弁天川にはアイヌ人が住んでいた。 弁天川の主は白蛇立った。
○戦に敗れた大阪の貴族が刀を埋めたのが「刀塚」。
○弘法大師が池の回りの柏の木に袈裟を掛けて一詠「我が衣を持てよ柏木」。 これが「かしわ池」、その地が「持柏木」となった。 ただし、その柏木に触れると手が曲がる。
○泉の水を飲もうとしたら、丸い玉が飛び出し大入道となったので、「入道谷戸」となった。
○横野・諏訪の神木を伐ったら祟りがあった。
○滝沢・久保では、通る人のチョンマゲを切り取る妖怪「剃刀坊主」が出た。
○狩野や千石のお稲荷様では、丑之刻参りが見られた。
○豊城入彦命が御殿を建てたところが「御殿」という地名、散歩したところが「王平」という地名になった。
○千石稲荷・鳥山・猫新屋敷・百庚山・三坂山、などは狐火の名所だった。 特に、小雨の晩に多く見られ、狐の嫁入りといわれた。
(赤城山名勝地図)
☆勝保沢 カツボはカツモ(マコモ・稲化の水辺植物)の意。
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