飴の歴史
○平安時代、胃腸薬として「地黄煎」があった。 その後、地黄を加えた飴が京都・菊一文字屋が発売し伏見稲荷の名物となった。 そしては、地黄が入らない水飴も「地黄煎」とよぶようになり、訛って「ギョウセン」となった。(ぎょうせん飴)
※「地黄煎」には他の説もある。 「ちゅうせん飴・地黄煎飴」が訛って「朝鮮飴」となったという説もある。
※食に台(喜ぶ)で飴。
○古くは砂糖や蜂蜜は高貴な薬品だったが、江戸時代になると餅米から作られたいわゆる水飴が主であり、これから棒飴・切飴が作られた。(水飴に対して堅飴とよばれた)
江戸時代には、芝田町の桜飴と三官飴・両国橋のちぢら糖、が有名であった(たんきり飴)。 その後各所に「三官飴屋」が現れ、江戸飴屋・本唐飴・粟飴・笹飴など多様にわたった。
☆砂糖・蔗糖
日本への伝来は、鑑真和翔が天平勝宝六年に伝えたとされる説と・遣唐使が持ち帰ったとの説がある。
蔗糖は薬帖ともいわれ、当初は薬品として用いられた。 当時の甘味料と言えばアマズラ(甘葛)や、米を原料とした飴が主だった。 鎌倉時代から室町時代にかけての大陸貿易が盛んになり、砂糖が甘味料として用いられるようになった。
※白糖や精製白糖は、現在も日本薬局方一五局に定められた医薬品。
明治時代には、「今村の水無飴」なるものがあった。 文旦飴(ボンタン飴)に近かったらしい。
☆駄菓子
徳川時代、白砂糖は上菓子司のみ使用が認められていたので、一般向けは黒砂糖を用いた菓子「雑菓子」であった。
※雑菓子は上方での呼び名
☆軟膏飴
岩沼町の名物藍玉の形を象ったのが「饅頭飴」、紅花を莚に載せたさまを象ったものが「紙飴」で、「飴は岩沼、膏薬は一文膏」といわれた。
この名物飴は、二枚の薄美濃紙にはさみ・黒砂糖の飴を六個ばかり張り並べたもので、紙をなめはがして喰べるものであったが、紙が高くなり・不衛生だとのことで消滅した。
コメント