― 人生に遊び楽しむ、おいしい・たのしい・おもしろい ―
« 小松島・八州園 | メイン | 吹上釣橋 »
○吹上御殿・吹上御苑、千代田区1-1
☆吹上釣橋(吹上山里間釣橋)・吹上吊り橋 山里の吊橋は、明治三年に建設された支間長73mの単径間吊橋で、石と煉瓦で造られた主塔・錬鉄製のワイヤーを束ねたケーブルを用いた。 建設はイギリス人Watersの手によるもので、日本で最初の鉄製の吊橋として皇居内の山里の御庭(現吹上御園内)に架けられたが、明治十七年新宮殿造営計画により解体された。
○吹上御所競馬場・明治八年~明治十七年
小生の4代前の祖先6代田島武平(当時岩鼻県郷長)は、明治天皇の后美子皇后が宮中ご養蚕を再興した際、渋沢栄一(義理の従弟)の推挙でお世話役を拝命し、吹上御庭内の新御茶屋に蚕室を設け、熟練した養蚕婦4人を送り込み、奉仕させました。養蚕婦たちは明治4年3月中旬(旧暦)から約2ヶ月新御茶屋に滞在し、美子皇后のお近くで奉仕し、蚕室には何度も若き明治天皇の行幸がありました。ご奉仕の手が空いた時には、滞在中の彼女たちの世話をしてくれた直丁(八瀬出身の皇居内の雑役夫)の案内で御庭内のいろいろな御茶屋を案内してもらい、大泉水での舟遊びなども楽しませてもらいました。小生は残された関係者の日記などから、養蚕婦たちの吹上御庭内での生活の様子を再現しようと試みており、その過程でこのページにある明治初期の吹上御苑内の写真に出会いました。もし差し支えなければ、これらの写真の出典を教えていただけませんでしょうか? 大半は宮内省お抱え写真師内田九一が撮影したものと思われますが、それ以外の者が撮影した写真も含まれていますでしょうか? その点もお分かりでしたらご教示ください。以上、よろしくお願い申し上げます。 余談になりますが、ここに掲載されている吹上吊橋の写真には「明治三年に建設された」との説明がありますが、明治4年に養蚕婦たちが奉仕した時にはこの橋はまだ存在しませんでした。翌年明治5年に奉仕に出た養蚕婦が残した日誌には「大きな橋の普請が進んでいる」との記述がありますので、実際に建設されたのは明治4年後半以降であったことがわかります。
投稿: 河田 東海夫 | 2024年3月 8日 23:31
コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。
名前: (必須)
メールアドレス: (必須 / 公開されません)
この情報を登録する
コメント:
[ ブログ内画像検索 ]
もっと読む
小生の4代前の祖先6代田島武平(当時岩鼻県郷長)は、明治天皇の后美子皇后が宮中ご養蚕を再興した際、渋沢栄一(義理の従弟)の推挙でお世話役を拝命し、吹上御庭内の新御茶屋に蚕室を設け、熟練した養蚕婦4人を送り込み、奉仕させました。養蚕婦たちは明治4年3月中旬(旧暦)から約2ヶ月新御茶屋に滞在し、美子皇后のお近くで奉仕し、蚕室には何度も若き明治天皇の行幸がありました。ご奉仕の手が空いた時には、滞在中の彼女たちの世話をしてくれた直丁(八瀬出身の皇居内の雑役夫)の案内で御庭内のいろいろな御茶屋を案内してもらい、大泉水での舟遊びなども楽しませてもらいました。小生は残された関係者の日記などから、養蚕婦たちの吹上御庭内での生活の様子を再現しようと試みており、その過程でこのページにある明治初期の吹上御苑内の写真に出会いました。もし差し支えなければ、これらの写真の出典を教えていただけませんでしょうか? 大半は宮内省お抱え写真師内田九一が撮影したものと思われますが、それ以外の者が撮影した写真も含まれていますでしょうか? その点もお分かりでしたらご教示ください。以上、よろしくお願い申し上げます。
余談になりますが、ここに掲載されている吹上吊橋の写真には「明治三年に建設された」との説明がありますが、明治4年に養蚕婦たちが奉仕した時にはこの橋はまだ存在しませんでした。翌年明治5年に奉仕に出た養蚕婦が残した日誌には「大きな橋の普請が進んでいる」との記述がありますので、実際に建設されたのは明治4年後半以降であったことがわかります。
投稿: 河田 東海夫 | 2024年3月 8日 23:31