☆岩槻
語源は、岩付(岩附)とも錘付ともいわれる。
○武州岩築城絵図
○武州岩附城図
☆岩槻城落城
天正十八年、豊臣秀吉軍勢が岩槻城を攻めるとも落城せず、徳川家康に援軍依頼し慈恩寺観音堂に集結し様子を伺うも濁流の荒川を越せず。 そのとき白馬にまたがる白髪の老人、濁流の中を横切り城へと向かった。 これを見た本多平八郎忠勝率いる家康軍、後を追って城に入り攻め落とした。
この白髪の老人、実は辻村八幡神社御神体の八幡大菩薩、城に攻撃を知らせようとするも・家康軍に進入路を教えてしまった。 この後、辻村八幡様と岩槻久伊豆神社の仲が悪くなったらしい。
☆代山城
岩槻城の出城、小久保縫殿助居城(新編武蔵風土記)・山田大隅居城(武蔵国郡村誌)ともいわれる。 表鬼門に山王社、裏鬼門に厳島社。
コメント