上野不忍
不忍池(江戸名所道戯尽)
☆江戸の茶屋
お茶だけを出すのが「葉茶屋」、酒や肴も出すのが「水茶屋」。 奈良茶飯屋などは「一善茶屋」・「煮売茶屋」とよばれた。
※明歴の大火後、浅草に奈良茶飯屋(一善飯屋)ができ、次第に江戸中に広がった。
☆池の茶屋
上野不忍池畔の出合茶屋、蓮茶屋・蓮池院ともよんだ。
☆弁天島
三代将軍徳川家光が天海上人に命じ、江戸の鬼門除けとして寛永寺創立。 このとき、不忍池を琵琶湖に見立て・池の中に島を築き竹生島に模した。
八百善・浅草山谷(江戸高名会亭尽)
☆八百善
勘定があまりにも高かったともいわれる。 それは、客が帰った後に、使った食器をすべて破棄したからとも。
☆八百善・山谷
元々は八百屋、寺に精進料理の仕出しをはじめたことから料理屋になった。
○八百善組立絵(立版古)
「越こし絵」、顧客の土産用紙細工。
○料理番付・文久三年
☆八百善
主人の栗山善四郎は多趣味であり、俳人・文人のネットワークを使い八百善の名前を高めたといわれる。
※茶漬けを注文したところ、半日待たされ・代金が一両二分の高額だった。 それは多摩川まで良質の水を汲みに行ったといわれる。
☆江戸の高級料亭
深川土橋の「平清」と山谷の「八百善」が二大料理屋であった。
☆八百善を茶漬けにする
「贅沢の限り」の意。
☆どんぶり
井戸の中に物を投げ込むと「ドンブリ」、なので丼(どんぶり)。
江戸職人の前掛け(腹掛け前かくし)を丼とよび、ここから適当にお金を出し入れしたので「どんぶり勘定」。
※相撲興行の利益を分配するさい、全部を酒樽に混ぜ入れ「一人当たりどんぶり何杯」としたのが「どんぶり勘定」との説もある。
平清・あづまにしきゑ
☆平清・深川
深川八幡参り客や辰巳芸者に人気、浴場あり、潮汁が評判だったらしい。
☆八百善
享保二年浅草で「八百善」創業。 元亀天正年間神田福田村の善四郎が野菜・乾物を売りはじめたのが「福田屋善四郎」、後に「八百屋善四郎」から「八百善」となった。
☆川甚
寛政年間創業、創業者は甚左衛門。 当時は川縁だった。
☆八百善・八百屋善四郎
元禄天正年間、神田福田村の善四郎(~宝永五年)が米を作るかたわら野菜・乾物を売り歩いた。 明暦耐火後浅草新鳥越に移店。 二代目から八百善、このころ江戸料理茶屋が高級料理茶屋へと変貌した。 寛政年間、四代目全盛期、公儀御用しばしばあり。 その後、休業・消失などあるも、明治九年上野公園に支店(明治十四年閉店)。 大正十二年震災で店焼失後、築地にて開店、戦争中により閉店、1951年再開。
☆不忍池・台東区上野公園2
五百年前は海の入江、その後海岸線が後退し・陸地が広がり・低地が海から切り離され池として残った。(現在の三倍ほどの大きさだった)
天海が弁天島に弁財天を祀るお堂を造ると有名となり、延享四年池南側に土手が築かれ・料理屋茶屋が並ぶ盛り場となる、寛延三年弁天堂裏に橋が架けられたが翌年撤去、文政三年池浚渫し西側に土手を築き・多くの茶屋ができたが天保の改革で撤去された。(創建当初は弁天島には舟で渡ったが、寛文年間には道が築かれた)
※蓮の若根は将軍に献上され、蓮飯なども有名だった
※聖天様のある聖天島は、弁天島より古くからあった
○上野山した・伊勢屋(いせや)
上野寛永寺の門前にあったのは紫蘇飯屋の伊勢屋、後に料理屋「山下の雁鍋」となった。 明治元年の上野戦争の際には新政府軍が立て籠り、二階から彰義隊を狙撃して勝利のきっかけになった。
コメント