羽根倉富士嶽
建久四年源頼朝が富士裾野で巻狩りをした際、宗岡里人が多数勢子として招集されたのを記として、大野の地に祠を建て・富士浅間社を祀った。 長禄年間荒川洪水で祠が羽根倉に流され、その地に社殿を建てた。 明治五年~十三年、境内に富士塚を築いたが、昭和初期荒川改修のため蓮田に遷座、1973年県道開通により現在の地に移転、富士塚も移築された。
☆羽根倉の合戦(羽祢蔵)
観応二年、高麗経澄が難波田九郎三郎らと戦い討取った。
☆羽根倉浅間神社縁起
鎌倉幕府を開いた源頼朝は建久四年に家来を集めて富士の裾野で大がかりな巻狩りを行ったが、その際に宗岡の人達も勢子を追い出す役としてかりだされたのである。 そのために翌年の年貢を免除されたので、喜んだ村人達はこれを記念して字大野に塚を築き富士浅間を祀った。 それが羽根倉浅間神社の起源となったのである。
☆羽根倉橋・1954年
1938年新秋ヶ瀬橋完成により、不要となった仮橋を羽根倉橋として移築、洪水時は橋板を外した。 1955年完遂橋となるも、欄干無し。
☆関根兵庫館跡・鎌倉古道
岩槻落城のさい落武者が土着したともいわれる。
☆田子山富士塚・大正十年頃
大正九年に始まった荒川改修により、堤外より堤内へ移築、本殿・拝殿は新築された。
明治五年六月築造、古墳といわれてきた「田子山塚」の上に三十三尺の土を盛り、二年八カ月の歳月をかけて完成したといわれている。
築造の発起人は後に富士講の先達となった高須庄吉、山の正面右側にある浅間下社に祀られている暦応三年の紀年のある十瀧房承海の逆修板碑を発見したことが築造のきっかけといわれている。 高さは8.5m・円周125.3m・斜度39度の丸みのある方形をした富士塚で、登山道や胎内なども造られており・頂上には木花咲耶姫命が祀られている。
「富士塚」としては県指定第1号・市内における県指定文化財としても第1号である。
※志木周辺では、高尾山へ参拝する「志木日護摩講(高尾講)」が盛んであった。
○矢口餅
源頼朝が富士の巻狩りで嫡子頼家が鹿を射止めた夜、矢口の神事(箭祭)に食された。
○敷島神社
志木市本町2-9-40 浅間神社・田子山富士(富士塚)・稲荷山神社・水神社を、明治四十年に合祀。 浅間神社祭神・木花咲耶姫命にちなみ「敷しまの倭こころを人とはは朝日ににほう山さくら花」より引用し「敷しま神社」とした。
コメント