いろは樋 (1)
☆いろは樋
江戸時代前期(万治二年とも寛文二年ともいわれる)、新河岸川に木製の樋を架け・本町川から宗岡川へ通水した。 つなぎ合わせた樋が48個だったので「伊呂波樋」。 明治三十一年河川改修 に伴い鉄管・煉瓦造りとなり、1965年廃止された。
野火止用水の水を枡に貯水し、勢いと落差で260m離れた対岸の枡へ送り出した。 樋の高さは、舟運を考慮し水面から4mだった。
※新河岸川の舟運は潮汐を利用していたことから、川の水には海水が含まれ飲料水・灌漑用水に適さなかったらしい。(当時は引又河岸付近まで潮の影響を受けたといわれる)
☆いろは樋
野火止用水本流末端は、志木で新河岸川に流れ込んだ。 これを見た対岸宗岡村人達は「あんなきれいな水を新河岸川に流してしまうのはもったいない」と思った。 そこで地頭岡部忠直が白井武左衛門に命じ「いろは樋」を築き(寛文二年)、生活用水とした。
※縣桶は四十八個の箱樋を並べたので「いろは樋」、その後継ぎ足して六十個になったといわれる。
※サイホン工法は平林寺堀にもみられる。
※志木周辺はかつて水害が多く、たくさんの堤が築かれた。
☆いろは樋・明治三十年頃
川底に鉄管(ベルギーリージュ製)を敷設し、煉瓦造りの大桝を建設した。
☆志木市引又
ふるくは曳跨(蟇俣)、新河岸川と柳瀬川を跨いで舟を引き上げたといわれる。 ※宗岡はかつての領主名。 志木は、新羅→志楽木とともいわれる。
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