18ポンド カノン砲
☆18ポンドカノン砲
増幸産業株式会社@川口市本町1-12-24
この大砲は幕末の嘉永5年(1852年)に津軽藩(現青森県)の依頼により、川口の鋳物師として名にあった増田安次郎(当社代表の増田家初代)と、後の砲術奉行となった高島秋帆とが協力して、当時不可能とされていた大型砲の鋳造を可能にした。嘉永5年から安政5年までに213門の大砲と41323発の砲弾が作られ全国各地に供給された。鍋、釜などの日用品鋳物から大砲の鋳造へ乗り出すことは想像に余りある大冒険だったに違いないが、当時のチャレンジ精神は現在も粉砕機の開発に受け継がれている。
○大砲鋳造
江戸末期には大砲鋳造を任されるようになり、大砲・鉄砲・弾丸などを製造した。 その後明治新政府になると、大砲鋳造は砲兵工廠に移った。
○永瀬庄吉
それまでの生型鋳造を焼型鋳造に代え大量生産を可能とした。 また、足踏みたたらを蒸気機関とし・後に電動となった。 邸内には発電所があったらしい。
※鋳物工場屋号「永○」は永瀬庄吉工場から・屋号「増○」は増田工場から、独立した工場。
○大砲製作
天保十三年永瀬文左衛門が、岩槻藩に大砲二門を製造。 後に江戸湾防衛のため富津に設置。
安政三年増田安次郎が、水戸列公青銅砲鋳造を指導。 嘉永三年増田安次郎が、津軽藩松平甲斐守に大砲製作、嘉永五年三月までに六十五門・十二月までに百八門製作した。
元治元年小栗上野介総責任者・勝海舟管轄下で、幕府が小石川関口大砲製作所にて本格的に大砲製作開始、川口鋳物師も約30名動員された。
☆増田家鋳造関係古文書
江戸時代
中青木2-20-31(中青木分室)
増田家は、代々鋳造業を営み、幕末には幕府御用鋳物師として活躍し、その技術力の高さは当時の鋳物師の中でも抜群であったといわれています。 この史料は、当時の川口鋳物業の近代化の過程を知る上で貴重です。 安政二年の「御用留」は幕府方と工場の連絡簿であり、嘉永三年の「御鋳筒控帳」や「鋳造控帳」は鉄砲や砲玉の製造数を記録したものです。
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