荒川ふるさと文化館
熊野神社・誓願寺
☆熊野神社・南千住6-70
永承五年源義家勧請により創建、大橋架橋のおり安全祈願をし・文禄三年に完成した橋の残材で社殿を修理、以降も橋の修理の都度社殿を修理した。
☆素盞雄神社・荒川区南千住6-60-1
延暦十四年千住天王社として創建、明治以降素盞雄神社に改称。
※千住、古くは千寿・千手などよばれた。
☆袈裟塚の耳無し不動(三峯神社)・荒川区荒川3-22-10
耳の病に効験あり。
※三河島御不動之記・山東京伝
☆小塚原刑場跡・荒川区南千住5-33-13
江戸時代前期設置、明治時代初期廃止、二十万人以上が処刑された。
※小塚原の首斬地蔵(延命寺)・南千住2-34-5
☆耳なし不動、荒川区荒川3・耳なし不動尊
仙光院住職光慧、婚約者が遊女に売られたので日々通い詰めるも悪疾に罹り耳を失った。 そこで発起し仏門に入り・不動産を建立した。
☆投げ込み寺、荒川区南千住2・浄閑寺
安政の大火で遊女2700名が無縁仏として葬られた。
☆素盞雄神社瑞光石、荒川区南千住6・素盞雄神社
始祖黒珍が住居東方に連夜奇光を発する岩を見つけ・日夜礼拝するも、ある日老翁二人現れ「我々は、素盞雄大神と飛鳥大神なり」。 そしては奇岩を祀り・神社を建立した。
☆汐入の守護神、荒川区南千住8・胡録神社系境内
上杉謙信家臣高田嘉左衛門、戦乱の世を憂い・汐入の荒地を開拓し村を築いた。
☆千住大橋綱引き
小塚原天王の祭礼にて、橋の南北にわかれて大縄を引き合い・その年の吉凶を占った。 が、すぐに喧嘩となるため程なく中止となり、代わって神輿で川を渡る「船渡御(素戔雄神社)」となった。 が、これも中止となった。
☆名倉医院・千住
江戸中期千住に移り住んだ名倉重直、明和年間四代目名倉直賢(名倉弥次兵衛直賢)が整骨業を始めた。 代々兄弟が分家独立し名を広め、七代目弥一のころには関東一円から患者が7おしかけたといわれる。
明治七年医政により、整形外科医院となった。
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