長崎屋敷
☆長崎屋敷
西洋で唯一通商を許可されたオランダは、長崎奉行管轄下の出島に商館(オランダ東インド会社の日本支店)を移設(平戸から)し、出島がオランダ商船の発着や商館員の居住地となりました。 なお、カピタン(オランダ商館長)と随員を含む一行は、年1回(寛政二年から四年に1度、計166回に及ぶ)貿易の継続を謝して江戸参府(将軍への拝謁・拝礼と献上物呈上など)旅行を行い、5都市6軒の阿蘭陀宿(江戸長崎屋・京海老屋・大坂長崎屋・下関伊藤家または佐甲家・小倉大坂屋)に止宿しました。
江戸では本石町三丁目(現在の日本橋室町四丁目4番10号付近)の薬種屋・長崎屋源右衛門方が定宿となり、時折訪れるオランダ人に物見高い江戸市民は好奇のまなざしを向け、日本の蘭学者・医師などは直接交流や交換教授の場を求めて数多く訪問したといわれています。
☆住友泉屋銅吹所・大坂銅吹屋
文政九年、シーボルトが訪れ・大いに喜んだといわれる。
※江戸の定宿は、長崎屋源右衛門・本石三丁目
※オランダ商館長の住友泉屋銅吹所訪問は慣例化していた。
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