夏内 メモ
○白石村夏内、文化文政年間
近くに楮(姫楮)が生え・急流がありそこそこの水量が得られることから、清流を求め槻川に沿い和紙作りが発展した。 周りを山に囲まれたこの地では農耕ができず、男は炭焼き・女は紙漉(場所によっては蚕養)を業とした。 作られた和紙は紙問屋の蔵に保管され、主に社寺に納められた。
東秩父村の和紙作りは、江戸時代に全盛となり・江戸時代終わりに紙漉農家は八百軒程に達した。 江戸時代中期に細川紙が作られるようになると、一般家や商家などでも使われ需要が多くなり、生産拠点が小川町に移った。
※ネリとして使うトロロアオイが冬に限られる(保存がきかない)ため、紙漉は冬の仕事とされ、夏は仕事が無く家の内にいるので地名「夏内」とよばれた。
※夏は原材料の腐敗がはやく紙の品質が落ちるため、紙漉は行われていなかった。 しかし需要の増加で夏も漉かれるようになり、夏期の紙漉禁止となった。
○白石村
四方を高い山に囲まれた谷間に四十一戸が散在、炭焼を業とし・春の蕨と夏の魚捕少々。
○皆谷村
周りはすべて山と谷二十九戸、古くは御料所。
○奥澤村
槻川に沿い山際に七十三戸が住む、紙漉の村。
○槻川
水元は飯盛山の谷間、槻(欅)の大木があったので槻川とよばれた。
☆慈光寺
建久八年頃の全盛期には、七十五坊が甍を連ねた壮大な寺院群だったといわれる。
☆四萬部寺
性空上人の弟子幻通が、法華経四万部を写経し・経塚に納めたといわれる。
※写経四万部に要した和紙は、夏内で作られたとの説がある。
夏内遺跡・比企郡麦原村字夏内(ときがわ町大字西平1885)
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