戸山学校
大正三年戸山学校練兵場として使われていた北側部分に近衛騎兵聯隊が移転開営 された。(学習院大学内に一部が残っているらしい)
戸山学校西側部分には東京陸軍幼年学校があったが、昭和19年4月に八王子に移り・その後に陸軍航空本部が入った。
幼年学校の西側には道路を隔てて射撃場があったが、昭和30年代に取り壊され・跡地に早稲田大学理工学部や戸山公園ができた。 山手線の西側は陸軍技術研究所用地だった。
昭和四年戸山学校の東に、麹町区富士見町にあった陸軍軍医学校が移転し、昭和十一年には三宅坂上から第一衛戍病院(移転を機に臨時東京第一陸軍病院と改称)が、軍医学校隣接地に移転。 この病院には、戟地から最初に収容された陸軍病院(広島・小倉・大阪)の傷病兵の中から、高度な治療を必要とする者だけを転院させた。 その後、軍医学校の北には、防疫研究室や軍陣衛生学教室(戦後、国立栄養研究所庁舎として使用)などの庁舎が建てられていった。
戸山学校の南東にあったのが陸軍科学学校、もとは陸軍砲工学校・明治二十二年牛込区若松町の現在地に開校し砲工兵科の勤務に必要な学術を教授した。 昭和十六年八月陸軍科学学校に改称、昭和十九年十月て閉校。 その500mほど南東には陸軍経理学校があったが、昭和十七年に北多摩郡小平村に移転、若松町の跡地は東京女子医大病院となった。 経理学校の東隣には、明治三十六年から大正三年まで清国留学生向けの軍学校として東京振武学校が開校していた。 この学校から蒋介石・何応欽・陳独秀らが出ている。 振武学校の隣接地にあった戦前の成城中学校は、陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校的位置づけで、校長には参謀次長時代の川上操六や内務大臣時代の児玉源太郎など軍人が名を連ねた。
陸軍幼年学校
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