群馬での暮らし:分福茶釜
その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました。 その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。 人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから百六十一年の月日が経っていました。
○分福茶釜と四角和尚
吾妻町岩下青竜寺に雲水の守住み着鶴和尚が住み着き、村人達に「四角和尚」として慕われ た。
ある夜、青竜寺から笛太鼓の音が聞こえ、村の若者達も加わり、甘露味で元気の出る茶釜の 湯を飲んでは騒ぎ、毎晩青竜寺でお祭り騒ぎとなり、ついには田畑は荒れ放題となってしまっ た。 これに困った村の年寄り連中が、和尚を追い出そうとすると、和尚は釜を持って風の如 く走り去った。
※青竜寺の寺宝であった分福茶釜を、タヌキの守鶴和尚が盗み出し・正通禅師のあとを慕って 茂林寺へ逃げ込んだとされる。(その道中蓋を落とした)
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