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太田伝説(1)

Mantokuji○義重山新田寺大光院の山門は「吉祥門」、徳川家康が大阪城落城を喜んで名付けた。

○植木野村にみすぼらしい修行僧がきて、芋を洗っていたお婆さんにお布施を求めたが、断られた。 そこで隣家へ行くと、快く泊めできる限りのもてなしを受けた。  お婆さんの芋は石に変わった。 隣家のまな板裏には「阿弥陀如来像が描かれ・南無阿弥陀物と書いてあった」その脇には「空海」と。 これが、宗金寺の弘法大師が爪で掘った「まな板の名号」である。

○八重傘沼には大蛇が住んでいたが、竜舞の修験者・松本院清安が切り殺した。 それからは、毎夏水害にみまわれ・小雨でね沼が溢れるようになった。

○矢部城崩落のおり、家来が自害した城主の首を上矢部・愛宕神社本殿に埋め、城跡には八幡様が祭られた。 それ以来、この地を荒らすと祟りがあるといわれている。

○祥寿山曹源寺さざえ堂
 1187年六角堂建立、その後消失したが1793年さざえ堂建立。 お堂の中がサザエの形をしている。 日本三堂のひとつ。

○太田長手のため池に幽霊がでたので、村人達が確かめに行ったが皆逃げ帰ってきた。 あるオッサンが「幽霊ならおっかさんにみせてやりてえ」と出かけ、幽霊に頼んだ。 幽霊は「イカレナイ。 新田義貞一族が埋めた三千両あるから、みんなで使って」と言うと消えていった。 こうして長手の村は豊かになった。
※ため池は群馬子供の国奥。

○大光院・鳴かずの池
 昔、太田金山に與一という猟師が妻と母と暮らしていた。 ある年。大暴風雨に襲われ・山が崩れ・田が流され、獲物が捕れなくなってしまった。 そこで與一は他国へと獲物を捕りに行ったが、戻ってこなかった。
 食べるものにこまった妻は、自分獲物を捕りに行った。それは禁断の鶴だった。 妻と母は大光院に逃げ込み、役人から逃れ続けたが、ある日妻は病死した母を抱えて古池に飛び込んだ。 その日から古池のカエルは「與一・與一」と鳴き続けたので、呑龍上人が読経をあげ仏事を営んだ。  それからはカエルは鳴くことがなかった。

○安養寺の触れ不動尊(布令不動尊)
 1333年、新田義貞が北条氏を討つべく出陣したが小勢だった。 するとそこに、新田氏・里見氏・鳥山氏・田中氏・大井田・羽川氏、総勢五千騎が加勢した。 義貞は、これこそ一寸八分の不動尊のおかげと、大堂を建立した。(全員集合とふれ回った意)

○長楽寺・鈴と大黒天
 1221年、源義季が開山。 法照禅師が、鈴の音色にみせられて日光からお布施として持ち帰った。 この鈴のみを広げると大洪水になる。
 ある年、村は大飢饉となり食べるものが無くなった。 その頃、長楽寺の檀家である武州川越氏の元へ大大男が現れ救済を求めた。 翌日、長楽寺に米百俵が運び込まれ大騒ぎとなった。 大男こそ長楽寺の大黒様であった。

○満徳寺
 1192年創建、1591年徳川家康が復興、江戸幕府公認の縁切り寺であった。 1615年の大阪城落城で、徳川家康の孫娘千姫(一説では千姫の侍女刑部局俊澄)の入寺した。 1809年全焼、1872年廃寺、1894年再興された。 

○世良田の二体地蔵
 1333年、鎌倉の執権北条高時から六万貫の軍資金を求められた新田義貞は、その無茶ぶりに鎌倉を攻め討ち死にする覚悟を決め、使者黒沼入道を斬り捨て、ついには鎌倉を落とした。
 いつの頃か、黒沼入道の首を祭った「首塚」で戦いの声が聞こえるようになったので、石地蔵を立てた。 しかし、今度は泣き声が聞こえるようになり、「地蔵様が寂しくて泣いている」とし1789年普門寺の地蔵様を並べた。

○勾当内侍と花見塚(つつじ岡公園)
 延元年代、新田義貞が中納言藤原行房卿の妹・勾当内侍に一目惚れし妻に賜った。
 藤島の戦いで、義貞が足利高経に討たれたと聞いた内侍は嘆き悲しみ、都にさらされた義貞の首級を盗み上野国へ逃げ剃髪し儀源比丘尼と称し余生を送った。上野国では、台之郷・武蔵島・江田・高林・別所、など移り住んだとされる。
 武蔵島に住んでいた時は、ツツジの花を好み・柊を植え楽しんだので「花見塚・柊塚」とよばれた。 館林城主榊原中次が、この内侍遺愛のツツジを館林城沼の畔に移植したのが「つつじ岡公園」の始めといわれる。

○妙参寺沼
 大尽が嫁を迎えてお披露目の最中、嫁の足袋が擦れる音をオナラと姑がいびったのを、悔しく思った嫁は耐えられずに沼に身を投げてしまった。 これを知った姑は、沼の傍らに小さな寺を建てた。 これが妙参寺と妙参寺沼である。

○長命寺色地蔵と木崎節
 木崎宿は日光例幣使街道の宿場であり、当地の飯盛女にの信仰を受けたのが色地蔵といわれ、木崎節にも歌われている。
※秩父音頭の源流は「木崎節」ともいわれる。 歌詞は、かなり卑猥だったらしい。

○新田の湧水
 綿打村(新田町)には湧水池があり、このおかげで稲作が盛んとなった。 中江田(木崎町)の池は、新田義貞六代後の江田行義の館庭園跡といわれる。
 太田周辺は、利根川が運んできた沖積地が帯状に広がり(利根川地溝地帯)野菜作付けに適しているとされ、特にやまと芋が有名である。

○照明寺・鳴かずの池
 池のカエルどもがうるさいので、新田義貞が「静かにしろ!」と叫んだところ、カエル達が静かになったので「照明寺・鳴かずの池」。

○牛の塔(藪塚本町)
 仏門に入った智明(藤原秀郷の子孫園田太郎成家)が、故郷に帰るさい阿弥陀如来尊像を牛に付けて運んだが、藪塚村まで来ると牛が旅疲れで倒れ死んでしまった。 その牛を供養したのが牛の塔である。(尊像は故郷・桐生宗禅寺といわれる)

○西福寺・赤子地蔵尊
 860年頃、惟高親王が乳母の浅尾が西長岡(現太田市)に移り住み、「仏法僧」と鳴く声を頼りに松(千代の松)の根本に地蔵菩薩を堀だした。 この地蔵菩薩を西福寺に祀り、赤子地像と名付けた。

○おばけ桜
 笠懸野に伊助とうめ夫婦が住み着いたが、村では他所扱いされていた。 ある冬、伊助は出稼ぎにいったまま帰らず、食べ物に困ったうめ親子は村人に仕事を求めたが冷たく扱われ、とうとう伊助が掘った井戸に親子で身を投げてしまった。
 しばらくして、井戸近くの山桜下に子連れの幽霊が出・村には悪いことが次々と起き・干ばつが続いた。 これに恐れをなした村人たちは、清泉寺裏の桜の木の根元に供養塔を建てた。

○亜左美の長寿傘松
 亜左美村名主赤石長右衛門の末っ子が風邪をこじらせ死んでしまった。 嘆き悲しんだ笠松は子供の墓に松を植えたところ、やがてはお墓全体を覆うほどおおきくなり、「赤石家を守る長寿笠松」と呼ばれるようになった。

○鹿田山中腹にあるのが「震源物見の松」、東北端には「旗立ての峠」がある。

○流鏑馬を見物していた頼朝が、上州空っ風に飛ばされた笠を見て叫んだ「笠を射よ!」。 そして笠懸野とよばれた。

★石芋
 芋をざるに入れて持つ意地悪婆に出会った弘法大師が一言「その石を一ツくだされ。  婆が応えて「芋でござる、石ではござらぬ」。

コメント

お世話になります。幼少の頃、太田に住んでいたものでいろいろと検索しておりましたらたどり着きました、京都住みの43歳です。太田を10歳で離れて東京は中野に引っ越しましたが、中野の家の近くにある新井薬師の本尊が実は太田からきたものと知り偶然の一致に驚いたばかりです。どの記事も充実した分量で調べるのも打ち込むのも大仕事かと思いますが楽しみにさせていただきます。
http://www.araiyakushi.or.jp/about

 金山城と関係があったのは知りませんでした。
http://yamada.sailog.jp/weblog/2016/06/post-3402.html

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