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新田伝説

Ohta_22○義重山新田寺大光院の山門は「吉祥門」、徳川家康が大阪城落城を喜んで名付けた。

○呑竜上人が、生まれつき弱い子を預かり七歳になるまでは大光院の弟子として面倒を見た、のが「七つ坊主」。

○呑竜上人となかずの池
 ある昔、太田金山に与一という猟師がおっかさんと女房の三人で暮らしていた。 ある年、日照りで作物が枯れてしまい鳥も獣も山から姿を消し、食べる物が無くなった。 与一は遠くへ猟に行き帰らない日が続いた。
 やがて食べ物がなくなり病に倒れたおっかさんのために、女房が弓矢を持ち山へ出かけた。 獲物が無く暮れかけた山道をおりてくると、木々の間に羽ばたくものを見つけ夢中で弓を引いた。 射止めたのは禁制の鶴であった。 女房は大光院に助けを求め、寺の使いがおっかさんに薬と食べ物を届けたが手遅れであった。  女房は泣き嘆き、大光院の池に「与一…」と一言残して身を投げた。
 翌春、池のカエルが「ヨイチ…ヨイチ…」と鳴くのを聞いた呑竜上人は、女房の心をうち思い改めて弔った。  それからは、大光院の池は「なかずの池」といわれている。

○呑竜上人は弟子の雷神に、「今秋十五夜前に浄土へ行くのでよろしく」と伝えると、はたして雷鳴の中十念を唱え大往生した。

○源義経が奥州落ちの途中、冠の中に納めてあった京都伏見稲荷の神霊を祀ったのが「冠稲荷」。 
※七稲荷とは、伏見・信田・王子・嬬恋・豊川・田沼・冠稲荷。

○延宝三年、下山田村では増年貢に反対した領主徳川綱吉と村代表十八人が処刑された。 これを供養するため、「はりつけ場」に地蔵尊が建てられた。(下山田の義民)

○勾当内侍と花見塚(つつじ岡公園)
 延元年代、新田義貞が中納言藤原行房卿の妹・勾当内侍に一目惚れし妻に賜った。
 藤島の戦いで、義貞が足利高経に討たれたと聞いた内侍は嘆き悲しみ、都にさらされた義貞の首級を盗み上野国へ逃げ剃髪し儀源比丘尼と称し余生を送った。上野国では、台之郷・武蔵島・江田・高林・別所、など移り住んだとされる。
 武蔵島に住んでいた時は、ツツジの花を好み・柊を植え楽しんだので「花見塚・柊塚」とよばれた。 館林城主榊原中次が、この内侍遺愛のツツジを館林城沼の畔に移植したのが「つつじ岡公園」の始めといわれる。

○植木野村にみすぼらしい修行僧がきて、芋を洗っていたお婆さんにお布施を求めたが、断られた。 そこで隣家へ行くと、快く泊めできる限りのもてなしを受けた。  お婆さんの芋は石に変わった。 隣家のまな板裏には「阿弥陀如来像が描かれ・南無阿弥陀物と書いてあった」その脇には「空海」と。 これが、宗金寺の弘法大師が爪で掘った「まな板の名号」である。

○新田義貞が義兵を挙げたのを聞き、安養寺触不動尊が天狗山伏に姿を変え広く援軍を集めた。 この援軍が合流したのが、尾島町亀岡の「船繋ぎの松」。 そして鎌倉を攻め滅ぼしたので、「触不動尊」とよばれた。 
※参戦をふれ回ったの意、布令不動尊・軍令不動尊、ともいう。

○世良田・総持寺は新田義貞が住んだ新田館の傍らに建立した寺、「館の坊」とよばれる。 

○新田義貞建立の世良田・長楽寺開山栄朝上人寂滅のとき、寺の内は百万の燈を点じ列ねたように明るくなった。(宝時元年九月二十六日)

○法照禅師が日光より譲り受けたのが「長楽寺の鈴」、持ち出すと大洪水になる。

○大飢饉のとき、武州川越氏へ食料援助依頼に行ったのが「長楽寺の大黒天」、米百俵の救援を受けた。

○戦の時、内出城内の松に登り情勢を眺めたので「物見の松」。

○元弘三年五月八日、新田義貞軍勢が旗揚げのさい、鎌倉にむけて矢を放った。 雨の様に矢が降ったので、その地名「降矢谷戸」。  義貞の放った矢が刺さったのが「矢止めの松」。

○徳川郷は徳川家発祥の地・年貢諸役御免の地・守護不入の地であった。(尾島町徳川)

○縁切り寺・満徳寺は浄念尼公と浄院尼公との建久三年開基による尼寺、駆け込んだ女は 三年経てば離縁できる。

○新田義貞が鎌倉進軍のおり、冠を脱ぎ老松の枝に懸けて休んだのが、木崎の「冠著の松」。

○木崎の色地蔵尊は、女地蔵とも男地蔵ともいわれ、異性が通るとニコニコ・同姓が通るとソッポ向く。

○長慶天皇の御乳人が、長慶天皇御御崩の話を聞き悲しんで「延命地蔵尊」を建て冥福を祈った。(西勝院後に西勝寺)
※下江田には長慶天皇に関わる古墳もある。

○下江田・御門は、南北朝分立の頃、神器を奉安した所。

○新田義貞が鎌倉進軍のおり戦勝祈願したのが「生品明神」。

○義平が京都で六条河原でさらし首にされた後、妙満尼が密かに上洛し首を持ち帰って葬ったのが「義平の首塚」。(大根・大慶寺)

○寛文四年、徳川幕府代官岡登次郎兵衛景能が灌漑工事を行ったのが「岡登堰」、しかし妬み・反対などにより自害し相果てた。(岡登神社)

○九日夜  源義経が奥州落ちの途中笠懸で休んだおり、村人たちは厚いもてなしをした。 時は十月九日、おかげで十日夜の支度ができなかった。 そこで、「来年からは、九日夜にしよう」。

○源義経が杖にしていた松の枝二本を地に刺したのが根付いて大樹となったのが「山之神」。

○仏門に入った智明(藤原秀郷の子孫園田太郎成家)が、故郷に帰るさい阿弥陀如来尊像を牛に付けて運んだが、藪塚村まで来ると牛が旅疲れで倒れ死んでしまった。 その牛を供養したのが牛の塔。


☆徳川綱吉
 館林藩主時代に脚気(当時は江戸わずらい)になり、練馬で療養したらしい。
※尾張藩から贈られた尾州大根の種を蒔いたのが練馬大根といわれる。

☆脚気
 「碓氷峠を越えれば治る」といわれた。

☆舟繋松
 水辺を伝わって来る神を迎えるのが舟繋松、この神が山々にでかければやはりそこには舟繋松が待っている。 
※山中にも舟繋松がある

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