グンマの昔:上野国
○上州の起源
六世紀、東国では武蔵国までが大和政権支配地、利根川以北は蝦夷の地といわれ・毛野氏が独自の政治・文化圏を構築していた。 そのため、大和政権からは「毛野国」とよばれていたが、仁徳朝により「上毛野国」と「下毛野国」に二分された。(都に近い方が上・遠い方が下) 大化改新後、地方国名を二文字にすべしというので、「上野」と「下野」になった。 中世に入り人や物の移動が盛んとなると、国名に州を付けるのが流行り(信州・甲州・紀州など)、「上野」も負けずに「上州」とよぶようになった。
九世紀後半になると群盗が出没し、足柄峠と碓氷峠に関所が設けられた。 939年平将門の反乱となり、上野国府が占領された。 翌年、平貞盛・藤原秀郷よにより平定されたが、秩序回復に至らず東国は凶賊が続き上野国は「亡幣の国」となってしまった。 これに浅間山噴火が加わり、田畑が埋まり公領は荒れ土地は私有化し、そしては荘園が急増し、最も大きい新田荘が出現した。
十一世紀中頃、藤原秀郷一族は佐波郡東村に淵名荘をつくり、大胡氏・山上氏・深栖氏・林氏と赤城南麓を支配した。 十二世紀になると、武蔵国から大類氏・倉賀野氏・白倉氏・小幡氏・片山氏・新屋氏・多子氏が入り武士社会となった。 その後戦国時代となり、武田氏・上杉氏・北条氏・らの進攻を受け戦乱時代となり、1590年豊臣秀吉の小田原攻略まで続いた。
徳川家康が江戸へ移ると、関東北辺の護りとして上野国に家臣たちが配置された。(箕輪城井伊直真政十二万石・館林城榊原康政十万石・厩橋城平岩親吉三万三千石)
1600年関ヶ原役後、大名の再編により館林藩・高崎藩など藩主が次々と代わった。(前橋藩は酒井氏と松平氏のみ) また江戸に近いため、旗本領(329人の旗本支配地があったとされる)が全県下に広がり地域が細分化された。 この結果、一大名の強力な権力がなくなり、武士階級も無く・主従関係の意識薄く・士農工商の階層も緩く、団結心・連帯感も無くなった。
※上州人には、「天下を取る」という意気込みは無かったといわれる。
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