館林・茂林寺
元亀元年(1570年)茂林寺七世月舟和尚が千人法要を催す際、老役僧守鶴がどこからか茶釜を持ってきた。 この茶釜から参会者に振る舞われる湯茶は尽きることなく・さらに八つの功徳があるといわれ、「紫金銅分福茶釜」として納められた。 茂林寺開山となる大林正通和尚が、上野国伊香保からつれてきたのが守鶴(当時七十歳)、守鶴は役僧として代々の僧侶に仕えたが十世天南和尚時代の天正十五年(1587年)二月二十八日寺を去った(この時二百歳)。
※守鶴はやることが人間業でなかったので、狢の化身として伝えられたらしい。(守鶴を祀った守鶴堂もある) その後、明治二十八年厳谷小波が「日本昔噺其拾弐分福茶釜」を発表し一気に有名となった。
※邑楽には狸塚なる地名があり、高源寺には「茶釜の蓋」があるという。 これについては、大己貴を祀った貴(むち)神社・貴塚(むちづか)が訛り「むじなづか」となったともいわれる。
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