おぎのや
○株式会社荻野屋@安中市松井田町横川297-1
横川駅開設時、駅前旅館だった「荻野屋」は駅弁売りを開始した。(宇都宮駅についで二番目とされる) 最初は、おにぎり二個を竹皮に包んで五銭で売っていたが、乗客から「どの駅弁も同じだ」と言われ「碓氷軍記」をヒントに釜飯をはじめたと言われている。
※駅前旅館側
○荻野屋・釜めし
当初、「釜めし」は高崎鉄道管理局から許可にならなかった。 当時の駅弁は高くても100円だったのに対して、「釜めし」は容器代が高かったので120円で売ろうとしたのである。 やがて人々の生活が豊かになり、120円の駅弁があってもよいのではと、1958年2月1日発売となった。 その後、文藝春秋1958年9月号の短編記事がきっかけで、一日1000個以上売れるようになった。
※黄色看板の奥に弁当工場があり、小路を横切って右側の駅ホームへ運んだそうだ。
☆天からの贈り物
団体旅行の幹事が「どこへ行っても同じような弁当ばかりで飽きてしまった」と言ったのを機に、食べ終えても捨てることなく家へ持ち帰り旅の記念となる容器として小さな土鍋を考え土鍋一個三十八円で六千個発注。 釜飯弁当の値段は百二十円、駅弁はせいぜい百円の時代に高崎鉄道管理局では不許可だった。 そのため横川駅長黙認で駅売り、やがて1958年2月1日販売許可となった。
試作段階の弁当中身は、白いご飯に鶏肉・ゴボウ・シイタケ・おしんこであった。 その後炊き込みご飯となり、後にご飯の上に具をのせるようになったが、松茸入りでも売れなかった。 さらに、釜が重いので売り子の評判も悪かった。
やがて、「釜めし」→「峠の釜めし」と名を変え、錦糸卵で彩り(後に鶉卵や銀杏・栗・杏)、漬物を別容器としたが、一日四十個ぼどの売り上げが続いた。
ある日、下り急行白山・下り準急高原・下り準急白樺と、下り列車で売り切れ続出しこの日で600個完売となった。 それは、文芸春秋九月号の記事「信越線横川駅の釜飯弁当はイケる。 椎茸と鳥、筍などの炊き合わせで食べでがあり、お香々も凝っている。 可愛らしいお釜もチャンと一合炊きに使えるから、どうぞお持ち帰りくださいとある。 百二十円」だった。
※土鍋が浮かんだのは、ままごとの道具からともいわれている。
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