佃島
☆隅田川五橋
文録三年千住大橋架設、寛文元年両国橋架設、元禄六年新大橋架設、元禄十一年永代橋架設、安永三年大川橋(後に東橋・さらには吾妻橋)架設、いずれも木橋。 享保四年「新大橋と永代橋」廃橋計画あるも町人達の自主管理で存続、その経費捻出のため橋銭二文徴収となった。
※武士・医師・出家・神主は無料
※大川橋は個人架設のため当初より有料
※文化六年いずれも無料化された
☆シラウオ
江戸時代佃島ではシラウオが穫れ、将軍家に御本丸御用と献上された。
※シラウオの頭に「葵の紋」が透けて見えたといわれる
☆佃煮・鮒佐
徳川家康江戸転封のさい、摂津国佃村の漁師達に家臣の賄いをまかせた。 漁師らは穫れた魚を江戸城に納め、余った魚を塩ゆでにし保存食とした。 これを知った商人が売るようになり、江戸中期千葉より醤油が入るようになり、醤油煮の佃煮となった。 文久二年大野佐吉が浅草橋で「鮒のすずめ焼き」を冬季限定で販売、その後泊めてもらった佃島漁師家の「小魚の塩煮」をヒントにエビやアサリの佃煮を考案した。
☆永代橋崩落
文化四年八月十九日十時頃一橋家の舟が通るというので永代橋が通行止めとなった。 深川八幡宮のお祭りの中、人々は橋の手前に溢れた。 やがて通行禁止が解かれると橋の両側から人々が殺到し・身動きがとれなくなり・その重みを支えきれずに永代橋は崩落した。
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