飛鳥山
○飛鳥山の碑
元享年中後醍醐天皇の頃、当地の豪族であった豊島景村が、予てから緑の深かった紀州新宮の飛鳥明神をこの地に勧請したことから始まり、飛鳥山の地名もここから出た。 豊島氏が平塚城を築くに当っては、その本丸は平塚神社付近にあり、飛鳥山は道灌山と共に城の外郭としてその鎮護に当っていた。 現在地主山と称しているのはその遺跡である。
享保八年紀州家より出た八代将軍徳川吉宗が鷹狩りの帰途王子権現(王子神社)に参詣の際、その事情を聞き、紀州ゆかりの地として当時の地主に代替地を与え御用地とした。
☆王子
紀州牟婁の熊野若一王子を勧請したことに由来。 紀州新宮の飛鳥明神を勧請したので飛鳥(山)。
○西ヶ原一里塚
北区西ケ原2-13
一里塚は街道の一里(約4km)ごとに道の両側に築かれた塚で、その上には榎が植えられていました。 この一里塚は、日光御成道の日本橋から二里目にあたります。 23区内には18カ所あったといわれていますが、当時の位置を保っているのは西ヶ原一里塚と板橋区の志村一里塚の二つです。 二つの塚に挟まれた部分が江戸時代の街道の道幅です。
大正のはじめ、市電の延長のため塚が撤去されそうになったとき、渋沢栄一や 地元町民、学識経験者らが保存を要請し、塚をさけて軌道がつくられました。 その時の記録が、「二本榎保存之碑」に刻まれています。
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