佐野の渡し
☆佐野の船橋歌碑
むかし、烏川という川ををはさんで二つの村があり、それぞれに朝日の長者と夕日の長者が住んでいました。 村人たちは二つの村の間に船橋を作って行きを来していました。 朝日の長者にはナミという娘が・夕日の長者には小治朗という息子がいましたが、2人はいつしか舟橋を渡ってデートを重ねるようになりました。 しかしある夜デートの邪魔のために船橋のまん中の橋板がはずされてしまったのです。
真っ暗な夜のこと、足元はぜんぜん見えません。 何も知らない二人はそれぞれの岸から船橋を渡ろうとしたのですが・・・。 翌朝、かわいそうに、しっかりと抱き合ったままの姿で二人の遺体が川から発見されました。
それから先、不思議なことに船橋の近くで毎晩のように怪しい炎が燃えるようになったのです。 村人たちは二人の供養を行いました。 その後は、怪しい炎は見えなくなったそうです。
歌碑には船木観音の文字と、馬頭観音の線刻画像の下に、万葉仮名で、 「かみつけの佐野の船はしとりはなし、親はさくれどわはさかるがへ」と刻まれています。 これは、万葉集巻十四、東歌の一首です。 この碑は文政十年、高崎城下新町(現在のあら町)にある延養寺の住職良翁が建てたものです。 良翁は文学僧として知られ、「以呂波便蒙鈔」や、天明三年の浅間山噴火について記した「砂降記」などの著作を残しています。 船橋はここから見下ろした佐野窪の田んぼの中に石宮があり、そこが橋のたもとであったと伝えられています。
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