領ヶ谷城址
この地は、佐々木三朗守綱公築城の旧領ヶ谷城址で太田窪天神山と呼ばれてきました。 守綱は宇治川先陣争いの佐々木四郎高綱の兄で、帰国後、当地に曹洞宗守光院を建て守り本尊の薬師如来を祀りました。 鎌倉時代、源頼朝が伊豆に兵をおこすと武蔵武士は皆その部下となり頼朝の武将であった守綱は軍兵を集めるためにここに出城を造り、寿永3年平行盛と戦ってこれを打ち破り頼朝から賞詞を受けました。 室町時代には佐々木持清の居城となり、その後北条氏の武将千葉介国胤の所領となりました。
☆領ケ谷城・堀の内
治承四年、源頼朝挙兵のおり佐々木守綱が軍兵催促のため要害を構えたといわれる。
☆太田窪
天保八年代官所が年貢皆済目録作成のとき、「大田窪」を「太田窪」と書き間違ってしまった、そしたらそれっきり…
※もっと古くは大多窪
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