道灌山 メモ
☆道灌山・法螺貝の穴
明治五年八月二十五日とかや。牛後大雷雨あり。道灌山北崖の一部崩潰し。 其跡穴を成したり。当時法螺が抜けたりとの評判なりし。俗説に法螺千年山に住み。時至りて昇天すと伝ふ。法螺抜けといへるは是なり。素より信ずるに足らざるものなれでも。
☆道灌船繋松・日暮里惣図・道灌山
※江戸名所図会・道灌船繋松
※東都名所・日暮里、名所江戸百景・日暮里寺院の林泉、名所江戸百景・日暮里諏訪の台、安藤広重
※根岸谷中日暮里豊島辺図
※道灌舟繋松之碑・青雲寺本堂脇に移設(画本物見岡・日暮里青雲寺境内、鳥居清長)
☆道灌山遺跡
現開成学園グランド。
☆日暮里道灌山
谷中長耀山感応寺および根岸善性寺の開基「関小次郎長耀入道道閉」の屋敷があったので、「道閉山」との説がある。
☆日暮里佐竹屋敷
元禄十六年、出羽国秋田藩主佐竹右京大夫義和が、水戸城主徳川氏の抱屋敷と相対替で入手、敷地一万七千坪。 後に衆楽園(佐竹衆楽園)が造られた。 明治末年渡辺銀行頭取渡辺治右衛門が購入し、大正五年住宅地となった。
☆日暮里
古くは、谷根千(谷中・根津・千駄木)。 もっと古くは、新堀。
※谷中は谷の中、根津は本郷台地の根、千駄木は多くの木材、の意。
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