埼玉県立嵐山史跡の博物館
☆小衾郡菅谷館
平安時代終わり、畠山重忠が鎌倉街道沿いに館を構えた。 その後の戦乱により修築・拡張が繰り返され、当時の面影はない。
☆畠山重忠
長寛二年月日不詳生~元久二年年六月二十二日没
桓武天皇十二代秩父太郎重弘の長子畠山庄司重能の男・母は三浦義明の女。 重弘の代に秩父より畠山に移った。 菅谷館に居たのは重忠一代のみであった。
鎌倉時代初期の武藏武士。 桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族で、畠山荘(深谷市畠山)が名字の地。 畠山庄司次郎と称す。 父は畠山重能。 母は三浦義明の娘。 妻は北条時政の娘[重保の母]と、足立遠元の娘[重秀の母]の二人が知られる。
治承四年八月、源頼朝が挙兵した当初、平氏方に属して由比ヶ浜で三浦義澄らと戦い、一族の河越重頼・江戸重長らと衣笠城を攻略した。 同年十月、長井の渡しで頼朝に帰順し、頼朝が鎌倉に入る際には先陣を務めた。 元暦一年一月、源義経に従い、宇治川の合戦で源義仲を討ち破った。 同年二月、一の谷の合戦にも参陣したが、『吾妻鏡』では大手大将軍の源範頼に従ったとされ、『平家物語』では搦手大将軍の源義経に従い、郎党の本田近常が平師盛を討ち取ったという。 文治三年地頭代の押妨をとがめられて伊勢国沼田御厨を没収され、身柄は千葉胤正に預けられた。 まもなく許されて、武藏国菅谷館に蟄居したが、梶原景時に讒言されて謀反を疑われた。 しかし、「弓馬の友」の下河辺行平のとりなしで疑いを晴らすことができた。 文治五年、奥州藤原宇治討伐では頼朝が率いる大手軍の先陣を命じられ、阿津賀志山の合戦などで戦功をあげ、陸奥国葛岡郡を勲功の賞として拝領した。
建久一年、頼朝の上洛の先陣として供奉。 当時、武藏国留守所総検校職の地位にあったと思われ、同四年、頼朝の命で、丹党・児玉党の両党の確執を調停した。 同六年、頼朝の再度の上洛にも先陣として供奉。 建仁三年、北条義時に従い、比企氏一族の討滅に加わった。 同年、鎌倉中の寺社奉行に選ばれ、永福寺を担当した。 鎌倉における重忠の屋敷は、幕府の南門の前辺にあった。
元久一年十一月、子の重保が京都で平賀朝雅と喧嘩したことから、翌年、牧の方が女婿の朝雅の訴えを受けて時政に讒言し、そのため時政は謀反の罪で畠山氏一族を討滅することを決意した。 こうして、同年六月二十二日、菅谷館から鎌倉へ向かう途中、北条義時が率いる幕府軍に二俣川で待ち伏せされ、壮烈な最期を遂げた。 墓と伝える五輪塔が、深谷市畠山にある。
情理をわきまえた代表的な武藏武士で、後世に多くの逸話を残した。 大力の持ち主として知られ、たとえば、宇治川の合戦では烏帽子子の大串重親を引きずって逆巻く濁流を渡河した話(『平家物語』)、一の谷の合戦では鵯越の逆落としで愛馬を背負って急峻な崖を下りた話(『源平盛衰記』)、大力の長居と相撲をして相手の肩の骨を砕いた話(『古今著聞集』)などが伝えられる。 ただし、真偽については疑問もある。 また、文治二年、鶴岡八幡宮で静御前の歌舞に銅拍子で伴奏しており、歌舞音曲にも通じた教養人としても知られる。 そのため、遠くでいななく馬の声を聞き分けるほど音感が鋭いといった逸話(『源平盛衰記』)も造作された。
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