« 滝野川城址・金剛寺 | メイン | 鰊きりこみ »

音無もみじ緑地公園

Ohji20_31○音無もみじ緑地公園
 東京都北区滝野川4-2

 すり鉢状の護岸構造のため川岸近くまで降りることができます。 川に面してワンド(川の入り江)が設けられ、川から入ってきた魚が繁殖できるようになっています。  また、水鳥も間近でみられます。

滝野川 の画像を検索 )

Ohji20_32

Ohji20_34

Ohji20_35

Ohji20_36

Ohji20_38

Ohji20_39○松橋弁財天洞窟跡
 東京都北区滝野川4-2・音無もみじ緑地公園内

 もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。 上の絵は、『江戸名所図会』に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜・秋の紅葉・殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。 画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。 水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。
 崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。 このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。 『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。
 また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。 旧滝野川村付近には滝が多く、夏のこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれました。 松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。
 滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和50年前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。 金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。


Oji20_benten 滝野川城は豊島一族滝野川氏の居城。 隅田川を渡った源頼朝がこの地に宿陣し、崖下の弁財天に祈願し・弁天堂を寄進した。

Kitaku_matsukyo8☆松橋弁財天洞窟

Kitaku_takinigawa8

Takinogawa_benten☆松橋弁財天洞窟・東京都北区滝野川4-2、音無もみじ緑地公園内
 滝野川付近では石神井川の両岸は深い渓谷となっています。 そのため、夏は避暑、秋は紅葉の名所として賑わいました。
 この作品は、現在の音無もみじ緑地の辺りを描いたもので、画面右側には滝野川弁天(岩屋弁天)の洞窟があります。 また川で泳ぐ人、水遊びを楽しむ子ども、床几の上では酒を酌み交わす人など、思い思いに夏の一日を過ごす情景をみることができます。

Oji_ootaki74

Oji_benten71

Takinogawa71c☆滝野川

Takinogawac

Boston_oji3_2

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。

ブログ記事を検索できます

  • Google

ブログ画像を検索できます

下記のアルバムを見る時は、右クリックから新しいウィンドウを開いてください。

ミニカー

  • Minicar1323a
    [Diecast cars]
    Any question available.
    Please ask in コメント column.

駄菓子

  • Dagashi1870a_2
    10円玉の世界-DAGASHI

めたる

  • Orgel_2b
    銅板・銀板の世界

北海道の昔

  • 啄木像
    北海道観光 in 1960'

札幌の昔

  • 定山渓
    札幌・定山渓

函館の昔

  • 啄木像
    函館・大沼

青函連絡船

  • Mashu_1fc
    田村丸から十和田丸まで .

浦和の昔

  • Aburaya1952
    浦和周辺

川口の昔

  • Kawaguchi41
    川口周辺

Nicolai Bergmann

  • Nicolai17a
    Nicolai bergmann
    (BOX ARRANGMENT)
    by ESTNATION