八百善
☆八百善・浅草
元禄天正年間、神田福田村の善四郎(~宝永五年)が米を作るかたわら野菜・乾物を売り歩いた。 明暦耐火後浅草新鳥越に移店。 初代屋号は「福田屋善四郎」・後に「八百屋善四郎」、二代目から八百善。 このころ江戸料理茶屋が高級料理茶屋へと変貌した。 寛政年間、四代目全盛期、公儀御用しばしばあり。 その後、休業・消失などあるも、明治九年上野公園に支店(明治十四年閉店)。 大正十二年震災で店焼失後、1927年築地にて開店、戦争により閉店、1951年永田町で再開、その後江戸東京博物館内にも出店した。
八百善・鎌倉
○八百善組立絵(立版古)
「越こし絵」、顧客の土産用紙細工。
☆八百善
勘定があまりにも高かったともいわれる。 それは、客が帰った後に、使った食器をすべて破棄したからとも。
☆八百善
主人の栗山善四郎は多趣味であり、俳人・文人のネットワークを使い八百善の名前を高めたといわれる。
※客が茶漬けを注文したところ、半日待たされ・代金が一両二分(現十数万円)だった。 それは多摩川まで良質の水を汲みに行ったといわれる。
☆八百善を茶漬けにする
「贅沢の限り」の意。
☆料亭山谷の重箱・浅草山谷
相模国厚木の初代儀兵衛、江戸は千住の鮒新・川魚問屋に住み込み、寛政年間山谷宿重箱地内に鮒重蒲焼店を開いた。 冨を得た初代は、紀州藩家老正井氏の二男を養子とし権力も得たが、二代目になると重箱は衰退の道をたどった。
当時の蒲焼きは屋台で焼いて皿にのせて売っていたのに対し、三代目儀兵衛は縄暖簾からお座敷に換え・自分で考案した重箱に入れて売ったところ大評判になり・店名も「重箱」となった。
※名物料理は、鯉こく・鯉のあらい・鯰のすっぽん煮・鰻蒲焼・鯰鍋・鮒料理など。
※山谷二名物が、川魚料理重箱と八百善。
☆重箱・山谷
相模厚木より江戸に出た儀兵衛、千住川魚問屋「鮒新」に住み込み、寛政年間山谷に鰻鯰の「鮒重蒲焼店」開店・重箱に蒲焼を入れて客に出した。
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