百川
☆料理茶屋・百川(百川桃泉)
明和・安永年間江戸日本橋瀬戸物町浮世小路に、百川茂左衛門が卓袱料理屋「百川」創業。 その後日本橋魚河岸から魚を仕入れて江戸料理を始め、安政年間には江戸の一流料亭は「八百善・がん鍋・亀清・万八・平清・嶋村・百川」といわれるようになった。 一流料亭ではあるが八百善に比べれば廉価で、庶民が婚礼料理なら使える料金(一人前が百疋~二百疋、現数万円)だったらしい。
こうして繁栄した百川、嘉永七年ペリー一行に幕府主催の饗応料理(西洋料理を含む)を提供した。(横浜へ仕出) 一人前三両で五百人分+α・総額二千両(現約二億円)。 その後徳川幕府崩壊、結局この料金は払われなかったらしい。 これが明治初年百川消滅の一因といわれる。
※百川桃泉、百川→ももかわ→桃の洒落。 当時の一流料亭では、客はまず風呂に入ってから・酒席についた。
※百川茂左衛門養子・後藤寅太郎は、客の歌川国貞に認められ、後に三代目歌川広重となった。 店を継ぐ養子として迎えた寅太郎が絵師になったのも、百川廃業の一因と考えられる。
※初めてガス灯がついた料理屋といわれる。
※落語「百川」は、この料亭百川が舞台といわれる。(明治時代に、柳家小三治が実際にあった話を纏めたとされる)
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