足立姫の古墳
神亀二年の創設とも伝えられていますが、嘉永六年の火災により、 すべての記録が失われました。 古くは本殿の右脇十二天塚があることから、「十二社」と呼ばれていました。 明治十二年に今の名称に改名されました。
言い伝えでは、この地域の荘園主 豊島清元(清光)が、熊野権現に祈願して授かった一人の姫が、成人して足立少輔に嫁いだのですが、 そこで心ない仕打ちを受け、荒川に身を投げてしまいました。 その時姫に仕えていた十二人の侍女たちも 姫に殉じました。 十二天とは、この十二人の侍女のことです。それと同時に熊野信仰での十二社とも関連があると 考えられています。
船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社とよばれました。 本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承にもとづいて建てられたものです。
昔、この地域の荘園領主の豊嶋清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立少輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(=荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を沈めたという話が六阿弥陀伝承のなかにあります。
十二天とは、この十二人の侍女をさすと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。 これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。
密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方村の十二天杜としてまつられたものともいえます。
なお、この伝承は江戸時代、六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし、荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧の行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。
☆六阿弥陀伝説・足立姫の墓
昔、足立庄司宮城宰相という名家の娘・足立姫が豊島左衛門尉清光という豪家に嫁ぎました。 しかし、姫は引出物が粗末とそしりを受け、里帰りの際に12人の侍女たちとともに、荒川(今の隅田川)に身を投げて命を絶ってしまいました。 侍女たちの遺体はすぐ見つかりましたが、姫の遺骸はついに見つかりませんでした。
父・宮城宰相は悲しみのあまり、諸国霊場巡りに出発しました。 紀伊国熊野権現で1本の霊木を得てそれを熊野灘へ流すと、やがて国元の熊野木という所に流れ着きました。 折りしも諸国行脚中の行基が通りかかり、宮城宰相が霊木のことを話すと、行基は一夜で六体の阿弥陀仏を彫り上げました。 さらに、余り木からもう一体造り、それを姫の遺影としました。
これらの阿弥陀仏は後に、六阿弥陀として近隣の寺院にまつられ、女人成仏の阿弥陀としてあがめられたといいます。
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