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慈光寺

Jikoji_02○一乗法華院慈光寺
 ときがわ町西平386、0493-67-0040

Jikoji_toba1☆青石塔婆
 慈光寺山門跡に、立つ板碑群です。 2mを越す五基の大型板碑を含み九基の板碑が林立する風景は、武蔵型板碑の代表的な景観として著名です。 武蔵型板碑とは小川町下里や長瀞町で産出する緑泥石片岩により作成された鎌倉時代から戦国時代の供養塔で、板碑・青石塔婆・板石塔婆などと呼ばれています。 ここに立つ板碑には、慈光寺のかつての僧侶名などが記され文字資料としても極めて貴重な存在です。

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Jikoji_kaizan1☆開山塔(覆屋)

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Jikoji_ido1☆丹花の井

Jikoji_tounoi☆塔の井

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Jikozan_sobouかつては、都幾山慈光寺本坊を中心に126を超える僧坊があった。

横線480

☆寺伝によると慈光寺の歴史は古く、修験道の開祖・役小角による西蔵坊建立を根本開山。 奈良唐招提寺を開いた唐僧鑑真の高弟・釈道忠による仏道建立を開山としています。 さらに釈道忠の付嘱を受けて、最澄(伝教大師)が天台密教を伝えたとされています。
 このように慈光寺は、女人禁制、修験と天台密教の二派が修行する道場として発展し、清和天皇から「天台別院一乗法華院」の勅額を与えられたほか、源頼朝からは田畑千二百町歩をはじめ多くの寄進が行われ、平安時代から鎌倉時代にかけて宗教的威厳と信仰の厚い武蔵武士団の軍事勢力を背景に繁栄を極めていたようです。


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☆多羅葉樹
 国指定文化財を有する慈光寺の本堂前に位置する。 その肉厚で大きな葉に、昔人は文字を記し、葉書をしたためたという。


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☆七井
 慈光寺山中には、かつて七つの井戸があり、それぞれ次のような説話が伝承されています。 なお、これらのうち現存するのは、「阿伽の井」「月の井」「星の井」の三つのみで、残りは長い年月の間に埋もれてしまったのか、所在が分からなくなっております。

阿伽の井
 観音堂の石段登り口左側にある井戸です。 信濃の国の諏訪明神が通力をもって天竺の国から熱池の水を取ってこられ、この井戸に注いだところ、泉はこんこん湧きでて尽きることがなくなったそうです。

月の井
 阿伽の井のすぐ右側にある井戸です。 役行者として有名な役小角が慈光寺に登り、仏法を広めるための守護を神明に祈りました。 するとこの井戸の水面に映る月輪の内に蔵王権現が現れ、役小角にその誓約をしたとのことです。 以来、この井戸を「月の井」と呼ぶようになったそうです。

星の井
 阿伽の井のある観音堂のしたから、旧参道を南に入ったところにある井戸です。 伝教大師最澄が、慈光寺に来られて修行されたとき、毎晩この井戸の水面に明星の影が映ったということです。以来この井戸を「星の井」と呼ぶことになったそうです。

和田の井
 慈光寺山中の東谷南斜面にあります。 その由来は、源頼朝が慈光寺を大造営するにあたり、和田義盛に命じてこの井戸を守護されたことによるそうです。 元この井戸は、慈光寺に学ぶ多数の修行僧のために使われた食堂の井戸であったとのことです。

塔の井
 釈迦堂跡のところから、南西に下る旧道の途中にあります。 源頼朝が慈光寺の五重塔を建立したとき、この井戸を梶原景時に守護させて以来、「塔の井」と呼ばれることになったそうです。

独鈷の井
 この井戸は慈光寺の裏山の谷を東に向かって流れる、後野川のほとりの冥官岩のところにあったと伝えられています。 その由来は、伝教大師最澄が天台の教えが末代まで守り伝えられることを祈るため、慈光寺を開山した広恵菩薩(釈道忠)から授けられた独鈷をこの井戸に収められたといわれております。

丹花の井
 慈光寺から後野地区へ抜ける林道の下にあります。 この井戸は、丹生明神が鎮護した井戸であるため、湧く水は赤い色をしており、甘みがあるということです。


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☆七石
 慈光山中をはじめ、ときがわ町の旧慈光寺領の各所に「慈光七石」と呼ばれる巨石、巨岩が点在しております。

男鹿岩と女鹿岩
 男鹿岩は弓立山の山頂近く、女鹿岩は西平地区の女鹿岩集落の南側にあり、西平の越瀬橋を挟んで、南北に向かい合っています。 そして地元には次のような伝説が伝わっています。 いつのころか、女鹿岩には雌の大蛇が・男鹿岩には雄の大蛇が棲むようになりました。 やがて二匹の大蛇は恋に落ち、一年に一度の七月七日の晩、麓の都幾川で逢うことができました。 そして一面に霧の立ち込めたある年、大蛇の恋は誰にも知られぬうちに結ばれました。 しかしある年の夏、大地が割れるような日照りが続き、雌の大蛇がいずことなく姿を消してしまったそうです。 これを悲しんで雄の大蛇は大粒の涙を流し、雌の大蛇の後を追っていつの間にか姿が見えなくなりました。 また地元には七月七日には災いが降りかかるという言い伝えも残っており、その日は決して外に出なかったそうです。

稚児岩
 「童子岩」ともいわれております。 女人堂から霊山院へ抜ける入沢谷のが崖上にある巨岩です。 慈光寺で修行していた稚児の一人が、あるとき大切な来客の近くを歩いていたところ、衣ずれ音が放屁の音と思われてしまい、師の僧に厳しく叱責されました。 そして稚児は悲しみのあまりこの岩から身を投じて、命を絶ってしまいました。それ以来、この岩から稚児の忍び泣く声が聞こえてくるようになり、「稚児岩」または「童子岩」と呼ばれるようになったということです。

琵琶石
 慈光寺山中の東谷の南斜面にあります。 楽器の琵琶に形が似た石で、静かな月夜に耳を澄ますと、この石から琵琶を奏でる調べが聞こえてきたといわれています。 しかし近年二つに割れてしまったのが残念です。

信濃石
 別名「牛石」ともいわれています。 琵琶石と同じく東谷の南斜面にあります。 大牛が腹ばいになっている姿に似ているところから、そういわれてきたそうです。 信濃石の名の由来は、伝説が失われており、詳しいことは分かりませんが、「牛に引かれて善光寺詣り」にちなんだものと伝えられています。

冠岩
 霊山院から大野地区の七重集落へ抜ける道の途中を、北側に上がった尾根上にあります。 かつて慈光寺の修行僧のうちの行徒、すなわち修験僧たちは、秩父の峰を回り・富士山頂などに登って行を修めておりました。 それらの行徒たちが、回峰を終えてこの岩まで来ると、法螺貝を吹き鳴らして帰山を告げるのを習わしとしていました。 そして、これを聞いた衆徒たちがこの岩まで出迎えに行き、そこではじめて行徒たちは冠を解いて帰坊したことからこの名前がついたそうです。

冥官岩
 「独鈷の井」のすぐ近く、後野川のほとりにあります。 由緒は分かりませんが、この岩の下に奥行き4mほどの洞窟があり、この洞窟を冥界への入り口に見立てたのかもしれない、といわれております。 また、冥官は冥界閻魔の庁の役人のことをいいますので、十王信仰にまつわる岩であることも考えられます。


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☆七木
 「都幾川慈光寺実録」には、慈光七木として「立ち返り柳」「椎樫」「五葉の松」「大栢」「八重の桜」「一本樅」「天狗杉」の名称が記されております。 これらのうち「大栢」は、萩日吉神社の南東にある、県指定天然記念物の「大カヤ」であると推定されています。 しかしその他の七木の所在と由来は、残念ながら分かっておりません。

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