霊山院
○叔山禅師入定塚
霊山院の大伽藍を一望にながめることのできる本堂西方の山腹にある両堂が叔山和尚の入定塚である。 入定塚は、叔山和尚が明治六年五月二十八日生きながら霊棺に入り埋葬され・小馨を打ち仏名を唱えながら入定せられた遺跡である。
霊山院第三十八世碩珠叔山和尚は文政六年伊予国松山に生まれ・十歳で同国浮穴郡南方村南昌寺桂州和尚について出家・二十歳摂津国祥福寺に掛錫・巨道禅師に参ずること八年・安政三年江戸月桂寺に任すること七年、徳望高くその偉才は将来を嘱望されていた。
文久三年霊山院の住職空席のため建物は荒廃していたので、寺門の興隆は宗師の徳望によると、末寺住職檀徒相議し叔山和尚に懇請して住職に就任してもらった。 当時寺の荒廃は極に達しており、彼はこれを憂い寺門を復興するために、御朱印地の山林八町歩に植林を計画し「十年の計は植樹をなすにあり、百年の計は徳をたつるにあり」と説き、自ら鍬を振い檀信徒の協力をえて杉桧二万本を植栽した。 慶応元年より明治二年に至る五年の歳月を要してこの大事業は完了した。
ところが明治五年国法の改訂により御朱印地は国有として没収されることになった。 叔山和尚は世の無常を嘆き衆生救護の仏となることを決意し、弟子を住職の後任とし檀信徒に後事を託し・時の入間県令あて願書を提出・泰然自若霊棺に入り葬列を整え埋葬され入定せられた。
国有となった山林は後に寺有に帰し、叔山和尚の企画した院禄の増加豊穣となり、現今の法運隆昌をみるに至った。
☆板石塔婆
霊山院境内に建つ永仁四年銘の2mを超える大型板碑です。 二重枠線内上部に大きく流れるような字体の阿閦如来を表す梵字と優美な蓮華座を据え、その下中央に造立趣旨・紀年・両脇に随求真言を配し、板碑として完成された整美さを持っています。
◇オトナの一休さん・一休宗純
無縄自縄・諸法無我・何似生・悟ったことすら忘れてからが悟り・忘れることも良し・大丈夫 しんぱいするな なんとかなる・・・
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