川口鋳物
鋳物ストーブ(石炭ストーブ)
安政三年箱館奉行の斐三郎と弥五郎がイギリス製ストーブをまねて造らせたのがはじまりといわれる。 当初道内では、薪を燃やす鉄板製ストーブ(小判形・ダルマ形・時計形)が使われた。
その後、薪が高騰し・石炭が安くなり、石炭ストーブ(投込式・貯炭式)となった。 大正十四年に札幌・鈴木豊三郎商店(後の福録)が国産貯炭式ストーブを発売し、當矢ストーブ・八千代ストーブ(カマダストーブ)・センターストーブ・キングストーブ・センロクストーブなどストーブ工業が飛躍的に発展し、1929年頃道産ストーブメーカーが川口に工場を移し量産するようになった。
18ポンドカノン砲
○大砲製作
天保十三年永瀬文左衛門が、岩槻藩に大砲二門を製造。 後に江戸湾防衛のため富津に設置。
安政三年増田安次郎が、水戸列公青銅砲鋳造を指導。 嘉永三年増田安次郎が、津軽藩松平甲斐守に大砲製作、嘉永五年三月までに六十五門・十二月までに百八門製作した。
元治元年小栗上野介総責任者・勝海舟管轄下で、幕府が小石川関口大砲製作所にて本格的に大砲製作開始、川口鋳物師も約30名動員された。
学習院旧正門・学習院女子大学
鉄門は、宮内庁出入りの日本橋指物師が木型を造り、川口鋳物は二代目永瀬庄吉・三代目永瀬庄吉(永瀬次郎吉)・永瀬竜吉らが製造したといわれる。
永瀬庄吉は、明治十四年にほとんど同じ外見形状の鋳鉄鉄門・吉原大門を製作。
明治四十二年完成の赤坂離宮(迎賓館)に正門と周りをかこむ鉄柵を納入。
○永瀬鉄工所製作
川口善光寺大楼鐘(明治以前・現存せず)、学習院鉄門(明治十年)、川口神社鉄華表・鋳物製鳥居(明治十一年・現存せず)、太田大光院の手洗鉢(明治十三年)、吉原大門(明治十一年製造も明治四十四年焼失)、成田新勝寺釈迦堂水盤(明治十八年・レプリカ)、待乳山聖天院石柱銅燈(明治十九年現存せず)、旧二重橋欄干及び外壁鉄柵(明治二十一年・現存せず)、日比谷公園鉄柵(明治三十六年・現存せず)、旧赤坂離宮表門(明治四十二年)、など
※小菅銭座(1860~1867)で鋳物製貨幣を製作したともいわれる。
☆日本ストーブ協会・1941年
福禄ストーブ(福禄商会)、愃六ストーブ・愃六竃(愃六工場)、一福ストーブ(金子鋳工所)、センターストーブ(株式会社山本最商店・株式会社三北社)、三ツ扇ストーブ(渡邊鋳工所)、白熱ストーブ(鈴朋鋳物工場)、國際ストーブ(合資会社國際本店:国際重工業とは異なる)、センオーストーブ(伊藤合名会社)、胴張ストーブ(田原製作所)、當屋ストーブ・日輪ストーブ(合資会社泰弘鋳工所)、カマダコトーブ・新カマタストーブ(カマタストーブ協会)、カゴメ屋ストーブ(伊藤鋳工所)、胴張ストーブ(徳永鋳工所)、三ツ星ストーブ(三ツ星鋳造所)、サロンストーブ(合名会社第一鋳造所)、フタバストーブ・アソブスストーブ(双葉商会)、キ印ストーブ・アズマストーブ(永瀬鋳工所)、サクラストーブ(昭和暖爐鋳造所)、都ストーブ・大東京ストーブ(東邦商会)、テングストーブ・ツバメストーブ(天狗商会)、日の丸ストーブ・丸川ストーブ(丸川商店)、國際ストーブ・タヌキストーブ(合資会社日本國屋本店)、ワンダーストーブ・アルバンストーブ(北山商会)、白熱ストーブ(涌井商店)、ホマレストーブ(虞瀬與兵衛商店)、ピースストーブ・ヘルスストーブ(ヒシヒラ商会製作所)、ワンダーストーブ・アルバンストーブ(北山製罐工業合名会社)、ハッピース・トーブ・ハオーストーブ(白神鋳造鉄工所)、アソブストーブ・ダイトンストーブ(大東株式会社鋳造所)、ビーアストーブ(河南工業所)、ビクターストーブ(合資会社絹田商会)、テングストーブ・金城ストーブ(村瀬鋳工所)、桜ストーブ・ダルマストーブ(小笠原鋳造所)、國神ストーブ(國神鋳物機械製作所)、協和ストーブ・ピアレスストーブ(協和鋳作所)、岡式ストーブ・背離用ストーブ(加藤鋳造所)、星印ストーブ・三錨印ストーブ(伊藤鋳作所)、星印ストーブ(ヤマサ)、
○鍋屋の井
此駅の南うら町筋に釜屋数十軒あり、但し鍋のみ鋳家あり、釜のみ作る舎あり、或は鉄瓶または銚子、或は釣、 扠は蓋と、作業家々に司る処わかれて両側に住宅し、見物を許せば、細工場へ入ておのおのその鋳形を見る、一興といふぺし、此釜屋どもの庭中に、悉く井あり、化粧側高きは九尺、又は八尺、低きといふも五尺より低きはなし、その側の上より清泉吹溢れ迸り流る、此土地の家々の井みなかくの如くといふにあらず、釜屋にのみ限てかかる名水あり、依て釜やの井戸とて名高し…
※浦和水脈の上にあった川口市には多くの「吹き井戸」があった。 この水を求めて大正十二年ユニオンビール(後にサッポロビール)が進出、やがて「吹き井戸」の水は止まった。 鍋屋・釜屋は鋳物屋の総称。
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