柴山伏越
元荒川と見沼代用水の交差地点で、元荒川の川底を見沼代用水が抜け出る構造になっています。 これは、流体を低い所に落とし・元の高さまで押し上げる連通管の理論を応用したものです。 この伏越は、享保十二年に井沢弥惣兵衛為永によって「紀州流」という土木技術でおこなわれました。 当初、伏越地点では伏越と掛渡井(元荒川の上を樋によって通水する)がおこなわれ、舟運にも利用されていました。
☆井沢弥惣兵衛
八代将軍吉宗により登用された弥惣兵衛は享保十三年見沼鴻沼等を干拓し、利根川右岸の下中条村(現行田市)から約60kmにわたる用水路を開削した。 これにより、約千二百町歩の沼沢地は水田に生まれかわり、周辺の村々に多大の恩恵をもたらした。 さらに、享保十六年八丁堤の北側に見沼代用水と芝川を結ぶ通船堀を開削し、用水路を利用した船運が開始され、地域の商品流通の促進に寄与した。
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