浅間神社
見性院の墓所(清泰寺)を護るため寛永元年に建てたといわれる。
※大牧は、見性院が慶長年間に徳川家康から領地として賜った地。
※見性院は武田一族穴山梅雪の後室、梅にちなんだ地名も残る。
○見性院の墓・葵の紋(清泰寺)
武田信玄の娘「見性院」は、夫の死後徳川家康のもとに寄寓し大牧村を采邑(領地)とし、二代将軍秀忠の子幸松丸を養育した。 後に幸松丸が会津二十三万石城主となったことから、会津松平家が安政五年見性院報恩のため建てたといわれる。
元和八年五月九日江戸で没、保科肥後守正之が田地を寄進し清泰寺に霊廟をつくった。 保科家が二代後に松平姓と葵紋を許され、見性院にも葵紋が認められた。 後に霊廟は倒壊し、門扉だけが残った。 安政五年、松平家により墓石が建てられた。
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