関白神社
☆船越明神
各地で戦乱が相次いだ戦国時代のことです。 戦いに敗れた杉戸の武将が体中に傷をうけ、元荒川沿いに落ちのびてきました。 船頭が今にも船を出そうとするところだったので、武将は対岸へ渡してもらうよう頼みました。 船頭は村でも評判の親切者でしたから、直ちに武将を船に乗せ、外から見てもわからないようにむろをかぶせて対岸へ渡してやりました。
間もなく追手の侍が渡し場までやってきて、「ここへ落人が来ただろう、落人を渡しただろう」と船頭に問いただしましたが、船頭は決して真実を話そうとはしませんした。 しかし、船を調べ落人の血痕を見つけてしまった侍は、有無を言わさず船頭を斬り殺してしまいました。
それから追手の侍は落武者の行方を探し歩き、ついに平林寺にやってきましたが住職の巧みな応対によって侍も寺の中へふこむことはやめました。 実はこの時、落武者は僧の姿で匿われていたのでした。 難をのがれた武将は、寺の人たちの世話で傷も治り、犠牲となった船頭の話も知ったのです。 武将は住職に願い出て、その門弟となり僧となっ船頭の御霊を弔うことを決意しました。 やがて武将は、平林寺から近いところに船頭の供養塔を建てて、生涯この地にとどまり、追悼の誠を捧げたということです。
この供養塔は「船越さま」と呼ばれ、船頭のお話は永く語り継がれました。 その後、村人の相談の結果、船越さまは神様に格上げされ、お宮が建てられて、船頭の慰霊と水や船の守り神「船越明神社」として祀られました。 さらにその後、船越明神社はお宮を造り代え、名前も「関白神社」と改められました。 そして明治の初めから、神社の格式のことで「関白」ではなく「閑白」の字を用いていましたが、現在は再び「関白」となっております。 現在の関白神社は、大正九年に改築されたもので、日ごろ「明神様」と呼ばれ親しまれております。
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