平林寺
○平林寺跡・さいたま市岩槻区平林寺532
永和元年太田備中守が岩槻金重村に平林寺を開く・開山は石室善玖、天正十八年五月豊臣秀吉の岩付攻略で焼失、天正十九年泰翁禅師没、その後徳川家康肝いりで再建するも寛文五年野火止に移築・移転。
岩槻平林寺が大河内松平家の葬列の地となり・川越藩主となった信綱が藩内移転を計画するも実現せず(父大河内金兵衛久綱の墓があった)、次代(輝綱)が遺命を継ぎ野火止に移転を実行した。 この時、岩槻城主高力忠房の所にお預けの身となり、元和元年五月二十七日に自刃した豊臣勢増田長盛の墓も移された。
※住持幽厳禅師が「水の無い地への移転」を反対したといわれる。 後に玉川上水が分水され野火止へ引かれた。
※全てが野火止へ移されたのではなく・寺の一部は岩槻に残ったともいわれるが、現在岩槻には何もない。
※見性院埋葬の地は清泰寺
永和元年開山石室和尚・開基太檀那大田備州沙弥薀沢が、武蔵国埼西郡渋江郷金重村に金鳳山平林寺創建。 その後戦乱により寺は荒廃するも、徳川家康が駿河国臨済寺の住僧鉄山を平林寺に招き住職とし、大正十八年寺領五十石を賜わった。 寛文五年西堀村(現新座市野火止)に移転し、現在の平林寺となった。
※三門は寛文三年解体・寛文四年移築、仏殿と中門も移築された可能性がある。
☆銅鐘(大宝八幡宮・茨城県指定文化財)
青銅製、高さ108.1cm・口径60.3cm。 鐘の中間にあるほぼ方形の四区の池の間の陰刻銘により、鐘はさいたま市岩槻区平林寺を開山した石室善玖が嘉慶元年に鋳造したもので、大工沙弥道善作とわかります。 その後、享徳五年に現古河市の上幸嶋郡穴太辺の星智寺のものとなったことが三区以下の追銘で知ることができます。 この鐘は天正元年九+月、佐竹氏の先手となった多賀谷氏が、猿島郡へ出陣の際に戦利品として持ち帰り、大宝八幡宮に奉納したものと伝えられています。 また、この鐘を撞くと、ふるさと恋しさから「あなべ恋し」と鳴ると言われ『あなべ恋しのつりがね』とも呼ばれています。
☆岩築平林寺
永和元年大田備中守が武蔵岩築に金鳳山平林寺を剏め、その開山に請じ石室和尚は且く鎌倉を離れ平林寺に居を移すも、永徳三年春建長寺に戻り・金龍庵の中に岩隠軒を創めて退居、平林寺住持を禅璨に継いだ。
天正十八年五月二十二日秀吉勢により岩築城落城、平林寺は聯芳軒を残してすへて焼失した。 天正十九年十一月十二日平林寺住持泰翁安安示寂。
徳川家康鷹野の途次に焼け残った聯芳軒にて休息、平林寺由緒を知り復興資金下置。 天正十九年十一月武蔵国騎西郡内五十石を平林寺に寄附し・駿河臨済寺鉄山宗鈍を平林寺に堅請し復興させた。
天正二十年六月十六日鉄山宗鈍入寺・待者雪堂、文禄四年雪堂に平林寺を託し・臨済寺に帰錫した。 鉄山により平林寺の名が興され、雪堂を以て伽藍が修造再興された
その後を雲峰宗怡が継ぎ、さらに随円宗器から幽厳へと継がれた。 萬治三年幽厳は岩築平林寺山内に睡足軒を構えて退居、後継は石院祖蘊。
寛文五年七月十一日幕府は岩築平林寺村之内五拾石の寺領に代えて、新座郡西堀村同所西屋敷に於いて五拾石の寺領を安堵した。
※平林寺は建長寺金龍庵末寺としてはじまった。
※石室和尚、九十六歳示寂し金龍山康徳寺平林寺に塔した。
※大田備中守、永和四年六月十七日没。
※鉄山雪堂元和三年十月十三日示寂、雪堂元和九年九月二日示寂、雲峰寛永十四年六月十二日示寂(蓮田・龍源寺)。
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